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散歩と雨と王子様

私には親友がいる。
大学4年の春に知り合い今に至るまで
時々連絡を取りながら何気ない日常を共に過ごしてきた。

彼は人をとことん大事にするあまり、
自分が弱っていることを忘れてしまう。
それに本人が気がついたのはつい最近。

涙さえ流せずに、「辛かった」と言ってきた。
芦ノ湖まで車を走らせながらそこそこの音量で失恋ソングなんて流しちゃって
熱唱していた合間に告げられたことだった。

強がっていた。プライドが邪魔をしていた。
そう言いながら今まで何も相談してこなかったことを謝ってくれた。

わたしはその瞬間かなり怒って、
そんなになるまでなぜ自分を大事にできなかったのか、
人を頼ることができなかったのかとそいつを叱ったのだ。

死ぬほど心配していたのだ。
連絡もよこさず、大丈夫だからと言い続けて、
今分かったのは、全然大丈夫ではなかったこと。
その時私がそれを知っていれば、なりふり構わず、
エゴだけど生きてて欲しい、どんな姿でも見せろ
と抱きしめていただろう。シンプルに、それができなかったことが悔しかった。

そこには肉体でしか伝えることができない愛情がある。
それこそ彼にそのときに感じていて欲しかったことだし、
それでしかその時の彼を救うことができなかっただろう。
体温と鼓動が人を救う時がある。

時々、男女の友情関係はあり得るのかという疑問を目にする。

私は、あり得るし、それ以上の関係も存在していると思っている。
愛情関係とでもいうべきか。
友人とか親友とかそんな安い言葉ではない。

ヤツが普通に生きているだけで自分の生きるエネルギーになる存在。
そんな人が私の周りには複数人いる。
その1人がそいつなのだ。

湘南を2万歩かけて歩いたり、
雨ふる品川を私がさす傘に1ミリたりとも入らずに歩いたり、
水族館で淡水魚をマジマジとみてみたり、
ここ一週間の間に2度も会ったが、
そいつのいかにも消えてしまいそうな表情を何度も見てきた。

ああ、まだ1人にさせたくない。
自分が見てないところで悲しんで欲しくない。
辛い思いをして欲しくない。
ご飯をうまいと言いながら食べて欲しい。
どんな表現をしてでもいいからぶつかってきて欲しかった。

口に何度も出そうになったがやめた。

嗚咽するほど泣いたり、
震えるほど怒ったり
ネガティブな瞬間を共にすることほど、
安心できる瞬間はない。
それを受け止めてくれる、共有してくれる人がいるから言語化しなくても
整理できることもあるのだ。

大事なものはいつも目に見えないのだ。

だから何度でもいう。

お前、もっとわがままになれよ。
愛してる。

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