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わがままであるということ
三月に入り、新たな年度の足音に気付かぬように過ごしています。こんにちは。私です。平成に帰してくれ。
今回もまた小説とかじゃなくて私の考えてることをつらつら書くだけです。ちゃんと小説も書いてますよ。一応何個か同時進行していて、一個出すつもりだったんですけど、もう少し掘り下げたいのでそのうち出します。
さて、今回は前回の人生のような大きな話ではなく、その初歩、まさにこれからの話です。そしてこれは私のこれから歩む人生への言い訳でもあります。そして今回はマジで完全に私の話になります。めちゃくちゃ簡単に要約すると、「働きたくないよ〜」という話です。私に興味ない人にとっては間違いなくつまらない内容になりますので、それでも構わない方は、どうぞ最後までお付き合いください。
私の周囲の多くの人間が就職先が決定、もしくはこれから歩む道を見定めています。彼らは大学のうちに大人へのヒントを確かに見つけ出し、身につけ、社会へと足を踏み出していくのです。
我々は働かずして生きていくことができません。お金がなければ日々の生活を送れないからです。そういう意味で、働くのは金銭のためです。
他にも働く理由はあるでしょう。それが夢であるとか、将来につながるとかそういう場合もあれば、とりあえず就職しないとテイが悪いみたいな場合もあるでしょう。それぞれがそれぞれの思惑を持って就職していくはずです。
そんなことはわかりきっていて、わざわざ口に出す必要などありません。ただ私が忘れないでいたいのは、それが人生そのものではないということです。
仮にスーパーホワイト企業で週二日休みがあったとして、五日は働く生活を、順当にいけば四十年近くおくるのです。時間だけでいえば、多くの時間を労働に費やすことになります。
それってだいぶクソなことですよね。いやもちろんそんなこと多くの人間が思っていて、それを飲み込んで、社会ってそういうもんだよね、と大人になっていったのでしょう。
ですが私は思いっきりガキど真ん中なので、そんなのクソだと思っています。
人生の意味とかそういう考えを置いておいたとしても、自分が何か他のものに操られている状態が、私は本当に嫌いです。
末っ子の男一人ということで、ぶっちゃけアホみたいに甘やかされてきました。金に本気で困った経験がないので、正直お金の価値がわかりません。なのでお金そのものに翻弄されることにいささか違和感を感じます。これが大きな二次災害を引き起こしていて、それは後述します。
お金で買えるものってたくさんありますよね。私は基本的に糸目を使わずにお金を使うタイプです。私の中でお金はそれ自体に価値はなく、それを支払った時に価値が生まれるものと認識しているので、支払うその瞬間まではただの紙切れもしくは金属塊なのです。それなら使わないと損じゃん!みたいな感じです。
お金の価値は世界的な規模で、相対的に決まるもののはずです。その認識のズレがお金に対しての興味を削ぐ結果につながっています。
お金の価値がわからないということは、逆に無くてもそこまで絶望しないということです。適当なバイトをすれば、その月を凌ぐぐらいの収入は入ります。もちろん栄えた都市では無理があるかもしれませんが、私の地元は田舎も田舎です。生活費もグッと抑えられます。
若干蛇足になりますが、若者の金の使い道といえば、オシャレとか遊びとか異性関係とかそんなもんでしょう。私はそれらと関係がほぼないので、金がなければないでべつに困らないのは道理です。
なので、お金を稼ぐことに対して前向きになれないのです。大学卒業してフリーター。世間的に見ればただの怠け者です(そうなんですけど)。
かといってやりたいことがあるわけでもない。それゆえに他の要因によって、仕事に対しての興味を起こせないのです。
簡単にいえば就職して働く意味が全くわからないのです。これが先ほど言った二次災害です。お金に対して興味があれば、カスみたいな仕事であっても、お金を稼ぐ手段と割り切って考えられます。ですがそれができません。
やりたくないことやって、しかも責任だけはちゃんとついてまわる。生きるのってめんどくさすぎる。
親にここまで育ててもらってるわけで、とても甘えた考えなのは重々承知です。わがままついでに言わせて貰えば、この世に生まれて、気付かぬうちに勝手に競争社会に組み込まれて、興味もないのに離脱はできない。私自身が敗者になることを気にしていなくとも、私の想定を超える多くの障害がこれから降りかかるはずです。参加手続きすらした覚えもないのに走り続けないといけないの、理解不能すぎる。
かつてアメリカの受験戦争についてのドキュメンタリーで、失敗したある青年が「そのうち二流の自分に慣れる。ゆっくり確実に」と述べていました。
私たちは皆、夢を抱き、それに向かうことが正義だと思い込んでいます。そうして個人の意思を無視したレースの敗者は、勝手に植え付けられた価値観の上で絶望を味わうのです。
それ自体が悪いことだとは思いません。ただ私は夢を抱くことはなかったから、主観で落ちこぼれた感覚もありません。ただ生きているのが私だけではない以上、相対的に生まれた劣等感が、私に落ちこぼれという認識をもたらすのです。アホらし。
そしてこういう考えが普遍的な物であるのも理解しています。多くの人はそんなこと知っていて、それに目を瞑って生きていく大人に成長するのです。それかそういったことに目を向ける暇さえないほどに人生を謳歌しているのです。
この思考をこねくり回すこと自体、幼稚なことなのです。
そうはいっても、これからそのレースを巻き返そうなどという気は起きません。私の人生そのものは、もうすでに最大瞬間風速を記録し、その時の慣性で進んでいます。
仮にこれから何かイベントがあっても、私の受け皿が歪である限り、受け取れるものもそれ相応です。全てのものが、どこかで虚しさを孕んでいます。
人生を山としたとき、多くの人々は山頂を目指して歩いてゆきます。私はその山の中腹でそれを投げ出したくなります。ですが山頂までは遥かに遠く、慣性だけでは坂を登ることは叶いません。下山をする気力もない。そういった感覚に囚われることがあります。
就職するメリットとして、母は口うるさく福祉について語っていました。あなたに何か起きた時誰も助けてくれない、と。これもまた面倒な話で、何かあったらぱったり死ねないがゆえに、そういった福祉がなければお金がいるというわけです。
こちとら人生にもう興味ないのに、降りることは叶わず、面倒な障害だけが立ちはだかってくるのです。将来を見据えているからこそ、それに対する不安や心配が生まれます。私には今そういった種類の不安は全くありません。ただ面倒な日々が在るだけです。
未来が見えない以上、どうしたって憂鬱な明日はやってきますし、何をしたってそれらに影響を及ぼすことなどできないのです。
ここから脱却するために必要なのは、お金の価値を正しく理解することか、夢を持つことのどちらかです。別に鬱とかそういうのではないですが、解決のために一度休息が必要です。
いや今でも充分休んでいるだろうが、とお思いの方もいるでしょう。ですが先ほど述べたように、私は何かに操られている状態が嫌いです。未だ大学生の私は、親から援助を受けています。これは責任を親が担ってくれているという観点から、ある意味支配下にあります。もちろん親に支配されている!とかそういう意味ではないですよ。感謝しています。
ただその人生の責任をまず自分で追わないことには、向き合えない気がするのです。責任に真に直面しなければ見えないものもあるはずです(多分金が余計にかかって絶望するだけでしょうが)。とにかく自分で操られている状態から抜け出さないと、その思考自体がその環境に依存した結果になり得るのです。
ですので、何か夢を追いかけている人が嫌というほど素敵に見えるのです。これが休みたい理由でもあります。何者にも操られず、ただまっすぐ歩んでゆく彼らを見ていると、否が応でも相対的な劣等感を抱いてしまいます。不可抗力によって生まれる憂鬱からとりあえず身を離したいのです。
街を歩くと様々な人がいます。そして様々な人生があります。その人生全てが私とかけ離れていて、素敵なものであるのは疑いようもありません。そういう意味で、私がいま暮らしている場所にいる限り、永遠に場違い感を抱き続けるのです。
夢はなくとも、将来なりたい人物像というのはあります。ただ一度、逆走している自分を呼び止めて、スタートラインまで引っ張ってこないことには、その人物像と今の自分を比較して哀しくなることしかできません。
一番面倒なのは、これから何十年と生きていくとして、私が何を思おうと社会から淘汰されるということです。私が正しくならない限り、相対的な劣等感は生まれますし、社会から外れていくしかないのです。一度その輪から外れてしまえば復帰は絶望的です。今私は己の幼稚さから、そこから立ち去ろうとしているのです。その一方で、それが明らかに間違いだということに気づいています。
正直、文字を紡いでいるときは幸せです。誰かがこれを読んでくれている限り、私の行為は自己満であっても正しくあるのです。金銭の有無など関係ありません。ただ、私が在っていい理由を十分に満たしていると錯覚させてくれるのです。その輪にいてもいいような気分にさせてくれるのです。
そうはいっても、ネットで気色の悪い小説を書いて、わがままだけをつらつら述べるフリーターの居場所などはありません。私が変わらなくてはならないのです。
ここにおいてまた別の幼稚さが私の邪魔をするのです。それが、変わる必要などないのではないか、ということです。
主観において、価値観が変わったことでその人が変わるのは健全だと言えます。ただ、外からの要因で変わらざるを得ない場合になり、変わってしまったとすれば、それが自分の輪郭を曖昧にさせると思わないでしょうか。私はそれが怖いのです。
幼稚とはいえど、今は確固たる自分があり、それは私らしさの一部です。ですが一度ぼやけてしまっては、もうぼやけることに対する抵抗がなくなり、私は私である必要がなくなってしまう気がするのです。
世の中にはたくさんの人間がいます。そうである以上、私は必ず誰かの下位互換なのです。そしてそれは社会においては、より顕著であるはずです。それに直面してしまっては、私は私の存在価値を本気で疑うことになるでしょう。二流の自分に慣れるというのは、誰かの下位互換であることに甘んじるということです。
私はそうなりたくないがために、本当に些細な、しょうもないことを「自分らしさ」と名付けて、それにハリボテの自分を支えさせているのです。一流になりたいとかそういう話ではありません。私でありたいのです。そして私であることが、私にとっての素敵さにつながると信じています。
ただそれがなくなれば、真の、何も持たない私を晒け出すしかなくなり、私に対する絶望のみが残ってしまいます。
杞憂だと己が一番理解していても、それが私を変えることの障害となっているのです。
ですから、繰り返しとなりますが、私が自力で変わる必要があります。他人の言葉は正直意味をなしません。相手が私のことを何も知らないように、私も相手のことを知りません。その人が発した言葉の、その背景というものは、その人の経験が複雑に絡み合って産まれるものです(本気で言ってくれているとするならば)。
それを紐解くことなど不可能ですし、同時に知らずに頷くこともできません。もしそうしてしまえば、ある意味それはその言葉を軽視していることになり得ますし、その真の重さに気付かぬまま飲み込むことは、私のアイデンティティとは所詮それくらいのことで揺るぐようなものであったと認知することにつながります。
そうなれば先ほどの自分を変えることにつながってしまいます。全ての言葉を飲み干し、消化し、己の肉体とするにはそれ相応の時間が必要です。
多くの人々はそうであったとしても、それ自体に時間がかかりません。その年齢に適したイベントが起こり、それらを乗り越えるに従ってそういうことを処理する機能が備わっていくのです。
ただ私は面倒ごと全てから逃げてきました。そのせいで今、勝手にがんじがらめになっています。十五レベルくらいでラスボスまで来てしまった感じの絶望感です。
そしてもう一度言いますが、これは言い訳です。こんなこと考えなくていいことは私が一番理解しています。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。子供おじさんの言い訳をつらつら述べさせていただきました。これを読んで俺にどうこうしてくれ!とかそういう意味は全くありません。
ただ、これからの人生を歩む皆さんに一度足を止めて、皆さんがこれから歩むであろう道、歩んできた道を見つめ直して、今ある素敵さを失わないでいてほしいと思っているのです(誰目線なんだという話ですが)。
その素敵さの根底にあるのは価値観です。価値観の揺らぎはほとんどの場合、自分で観測できません。知らない間に他人に勝手に干渉されて、もちろん良くなることもあるかもしれません。ですが、そうならなかった場合、それはとても残念なことです。
私はここまで多くの素敵な人と関わらせていただきました。ある意味でそれは私の中で憧れで、目指すべき人物像の一つです。身勝手な願望ではありますが、私の中でいつまでも輝いていて欲しいのです。私が正しくなり、劣等感のような歪んだ色眼鏡を捨て去ってから、そういった人々をもう一度、尊敬したいのです。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。BIGLOVE。
P.S.
ラベルとかシール剥がした後のベタベタとか、ミスって裂けた残りの部分とかは、ガムテとかをペタペタすると綺麗に取れます。