見出し画像

人生の話

 今回は小説とかじゃなくて、ただ私が言いたいことを垂れ流すだけの回です。よろしくお願いします。

 人生のゴールとはなんでしょうか。生物学的に見るならば、それは「子孫を残すこと」です。ですが、「子孫を残さなくちゃ!」と生き急いでる人は恐らくいないでしょう。結婚したい、子供が欲しい、と言う願望を持つ人は多くいると思いますが、子孫を残すという本能的な名目のもとの願いではないでしょう。まあ実際結婚したいとか思ったことないのであんまりああだこうだ言えませんが。

 特に今現在を生きる若者の目の前には、多くの選択肢があります。そこに結婚して家庭を持つという、かつてのステレオタイプな幸せというものは、優先度が低いように思えます。
 お金をたくさん稼ぎたい、と言う人もいるでしょう。現に、バイト先の後輩や、友人には大金を手に入れたいと言う願望を持つ人がいます。金を用いて幸せを手に入れるという選択肢の一つです。
 夢を追いかけたい、と言う人もいるでしょう。それは絵や音楽のような文学的なものがわかりやすいですね。細かく言えば将来〇〇をするために金を稼ぐ!とか学習する!というのもそれに当てはまります。
 夢とか別にないけど、とりあえず今を生きていると言う人もいるでしょう。なんとなく生きて、いつかその日が来たらやる気を出そうという事ですね。

 何が言いたいかというと、人生のゴール、言い換えるならば人の生きる目的というのは様々なもので、それは本能とはかけ離れているという事です。
 人間は子孫を残してからも、それを可能とするまでに要する時間の何倍も生きる珍しい種でいるため、それ自体が大きな目的となり得ないという可能性もあります。
 ですがそれ以上に、繰り返しとはなりますが、未来の選択肢が多く有ることが要因なのではないかと考えています。
 私たちの前には広大な未開拓の土地が広がっているのです。家庭を持つということは、明確に人生の大きなイベントで、その土地を限定することになり得ます。もちろんそこに対する幸せの度合いは人によって違いますが、それを明確に数値化できない以上、わざわざデメリットを取ることはしないと思います(まあ愛とかいうバグがあることも理解してはいますが)。

 先ほどだしだ、〇〇したいという願望がある人間にとっては、その人のゴールは見えています。木を切り倒し、川を埋め立て、そこまで辿り着くのです。もちろん回り道をしてもいいですし、木を切らなくてもいい。川を埋め立てずに橋をかけてもいい。その人にとっての最善をとってそこまで進み続けるのです。
 ゴールがあれば、それに必要な労力とは些細なものでしょう。それが見えている人間にとって、伴う困難を乗り越えることに対するリスクリターンがあっているのです。

 ではそうでない人間はどうでしょうか。
「未開拓の広大な土地」は、ゴールの見えない人間にとって、「永遠」なのです。行手には森が立ち塞がり、豪流の川があり、地平線が優に見える野原があります。そこをただ彷徨い続けることが、苦痛以外のなにものでもないことは理解していただけるでしょう。
 その先の未来が見えなければ、切り開くリスクリターンの、リスクばかりが大きくなってしまうのです。

 昔であれば、家庭を持つことがテンプレ型な幸せで、ある意味当たり前でした。なので、とにかく目標のない人間は結婚を目標に生きてきたと言えます。私の母がそうです。母に夢の話をすると、曖昧な返事が帰ってきます。聞くところによれば、結婚することが当たり前であったため、個人の幸せを追求することなど考えたことがなかったそうです。現代の自由さ、懐の深さを感じ取ることができます。

 この確固たるテンプレが揺るいでしまったことが、彷徨うことしかできない人間の発生の要因であるとも言えますが、ちょっと強引すぎるので、あくまで可能性として捉えていただきたいです。

 言わずもがな、要因は個々の内面にあります。一言で言うなら「夢があるかどうか」、つまり「未来が見えているかどうか」です。

 まず個々の未来の形成についてです。何かしたい!と思う場合、それがその人間の幸せの形です。ということは、それまでのその人の人生で、それを幸せだと認知する段階があったと言えます。
 例えば、野球を幼い頃からやっていて、野球選手になることが夢になる。父親がギターを弾いていて、それきっかけでギターが好きになり、ミュージシャンになることが夢になる。
 ですが、これは環境に大きく依存しているといえます。幼い頃スポーツに触れる機会がなかったり、そのものが嫌いな人にとっては、スポーツに関するものが夢にはなり得ません。音楽に触れる機会がなければ、音楽がその人の夢にはなり得ません。
 そしてそういったもののほとんどが、なりたい!と思う段階が早ければ早いほど良いのです。その機会に恵まれなかった人間は、自分がそうなりたいと気づくまで、遅れを取り続けなければならないのです。
 もちろんそうだとしても、その遅れを知りながらも、行動に移せる人間はいるでしょう。そうでない人間は、もうその道を諦めてしまうのです。前を走る人間への劣等感だったり、人生のステージが進むに従って、そういった不確定の夢を追い続けることに対して疑問を持って辞めてしまったり、理由は様々です。
 お金を稼ぎたいという人は、お金の価値を理解している人です。富による幸せの形成は、周りの環境、人間に左右されにくく、確定要素が大きいものです。お金が全てじゃないという言葉は、なんでもお金で解決できる現代で、明確に意味を持たなくなっています。もちろん現代だけの話ではありません。私の父より上の世代であっても、とりあえず結婚するのが当たり前であれば、尚のことお金が必要だったでしょう。そういった社会においては金のない人間は淘汰されるしかなかったでしょう。

 どちらにせよ、これは未来が見えている人間の話です。そうではない人間は、元から夢を見てなかったわけではありません。もちろん未だ夢を模索している可能性もありますが、どこかで挫折を経験しているパターンの方が多いでしょう。
 先に述べた野球を夢にしている人間であれば、自分のレベルに、もしくは野球選手の門の狭さに絶望したかもしれません。そういった人間は新たな夢が生まれるまでは、彷徨うこととなります。
 ただ、夢を模索する姿勢がある人間は話が別です。そこに希望が抱けるなら、ゴールが無い間、それを見つけることがゴールの代わりとなるのです。彼らはその先の正解の有無が不確定であるにも関わらず、喜んで木々を切り倒すことができます。そうして得たものが役に立つと信じて疑いません。

 そうではない人間にとっては、全てが無意味なのです。とくに挫折を経験してきた人にとっては、その労力が無駄になってしまうトラウマが、斧を持つ手を鈍くします。どこかで勇気をもって、それらに打ち勝つ以外に手段はありません。
 最悪なパターンはその先に死を見てしまった場合です。ゴールが死であれば、もう完全に全ての行為は無駄です。

 これまでの話から分かる通り、生きる活力の源は夢です。夢があれば人間は際限なく努力できます。それが己のためになることは明らかなのです。
 ただ彷徨う人間はどうするのでしょうか。もちろん歩みを止めたくても、一度社会で走り出してしまえば、その歩みは当人のものだけではなくなります。その人が歩みを止めれば迷惑を被る人間がいます。そこから逃げ出すのを躊躇う理由があるはずです。

 人間の生は、長い地球の歴史からみれば一瞬です。人生の意味、生きる意味って何なんでしょうか。子孫の繁栄ではありません。これはその「手段の一つ」なのです。その意味とは、後世に何かを残すこと。ひいて言えば、その人間が、確かにそこにあったという事実を残すことです。最近私はこの思想に囚われています。
 これは別に何か物を残せというわけではありません。発明家エジソンと知らない街で亡くなった小さな人間の命の重さを、いったい誰が比較できるのでしょうか。
 社会に貢献したかどうかとかそういう話ではありません。その個人の行いが、誰かに記憶されるかどうかです。夢の実現は、その意図の有無に関わらず、その人間のアイコニックな一面に十分なり得ます。夢までの道のりは険しい物でしょう。だからこそ、彼らが切り拓いた道というのは多様性に富み、同じものにはなり得ないのです。

 少しばかり身の上話をします。
 私は夢がない人間です。もちろん過去に夢を抱いたことはあります。特に大きな挫折を抱いたことはありませんが、その全てを諦めてきました。
 理由としてはまず努力ができないということ。努力をしたことがないわけではありません。ですが私には成功体験がほぼ全くありませんでした。いつしか努力というのはリスクそのものになってしまったのです。努力が足りないと言われればそうだとしか言えません。ですが、この努力が徒労に終わるという恐怖が、私の歩みを遅めるのです。
 次に煮え切らない性格であるということ。学びを得れば得るほど、私の歩もうとしている道は、私には場違いなものではないかという疑問が大きくなるのです。もちろんそれでも人は進んでいくのです。それはある意味で勇気です。その勇気がない私は、逃げる選択ばかりしてきました。逃げてしまえば、その循環から外れ、劣等感等々を抱かなくて済むからです。
 そしてプライドが高いということ。自分でそう思ったことはありません。むしろ謙虚であることが美徳だと教わってきた私にとって、その言葉は侮辱であるようにしか思えませんでした。ですがそう考えると辻褄が合うのです。負けたくないから、謙虚という蓑に隠れ、競争から逃げてきたのです。

 正直この話をするために書きました。こういう言葉があります。
「憂鬱は内に溜めるな。外に出せ」
 これは憂鬱だからと言って何かを爆食したり、酒を浴びるように飲んだり、タバコや薬物に手を出したりせず、声に出す、涙を流す、そういった形で外に出せ、という意味です。私の場合はTwitterがそうでした。ちなみに姉の言葉です。そのため、ここまで読んでくださった方には非常に申し訳ないのですが、これは長ったらしい自己満です。すみません。

 話を戻します。それぞれの人々には私を私たらしめるもの、それが必要なのです。ここで一つ重要な鍵を握っているのがそれぞれの心の豊かさです。
 例えば何かを始めるとして、それが競走形式になってしまえば、張り合いが出るとしても辛さを伴います。相手が同レベルであったとしても、です。もうすでにあなた方の遠い先を走ってる人間はいるのですから。
 豊かさというのは、その競争のカルマから抜け出し、己との会話を楽しむ余裕です。これは全てに言えます。競争から外れた時点で、ゴールは誰かに勝ることではなく、あなたが満足するものを作ることになるからです。
 それはスポーツでも、音楽でも、私の書く小説もそうです。
 もちろんそれは将来的にお金になったりする機会はほとんどないでしょう。ですが、その作品それぞれは、作り手であるあなたが強く繁栄されているはずです。その時点でその作品は良し悪しはともかく、唯一無二なのです。

 余談なのですが、昨今では映画であれ音楽であれ、サービスの発達によって多くの人が簡単に手に入れられます。つまりはそれが評価の幅の均一化、もしくは得ることの情報が似通ることで、審美眼の低下が発生していると思います。
 私の自論ですが、音楽や映画は小説の何倍も難しい物です。それが作られた年代はいわずもがな、社会背景、俳優の選出理由、使われている場所、その全てを把握しにくいからです。とくに小説であれば心情の変化、場面の移り変わり、隠喩などは書かれています。それ故に読もうとします。噛み砕く工程のあるなしに関わらずそれは主体的に得ることができます。そこで立ち止まることは容易です。
 ですが映画はそうはいきません。何気ないワンシーンであっても、制作者が映す・映さないの権限を握っている以上、何かの意味があるのです。なので皆さんも、何気ないワンシーンや、背景や、時間帯や、小物、その全てに注意して、何が何を表しているのか気にしてみると、映画は何倍も面白くなります。
 映画はあなたの理解をおいて次のシーンに進んでいます。ですから、あなたが常にそれらを受け止めようとしない限り、簡単にこぼれ落ちていってしまうのです。それらを無視してしまうのは非常にもったいないです。
 ちなみに絵はこれの何千倍も難しいです。絵の比喩や、繰り返し使われている曲線から隠された意味を読み解くのは、それ専門の知識を持っていない私をはじめ、多くの人には難しいでしょう。その土地や描かれた背景を知る必要もあります。正直、美術館って一日では周り切れないと思うんですよね。美術館は北海道。

 話を戻します。唯一無二さ、つまりあなたのこだわりを尖らせ続ければ、いつかは誰かに評価されるかもしれません。ですがそれを評価されたいからではなく、ただやりたいことをやった結果評価された、だったらめちゃかっこいいですよね。ゴーギャンとかカフカみたいで。
 そしてあなたらしさを生み出すのはあなたの心なのです。そういった意味でも、心を豊かにして、様々なものに触れ続ける事が重要なのです。

 夢がなくて困っている人もいると思います。ですが困っている時点でその人は模索の段階なのです。別にただ生きている人を批判しているわけではありません。その人がそれでいいならいいのです。もちろんこの全ての文が私から生まれている以上、主観であるのは言うまでもありませんが。

 二十そこらのクソガキが何を言ってんだ、と思われるかもしれません。それはそれで全く構わないと思っています。私はこの制作物にある意味誇りを持っています。思考そのものもそれに当てはまります。
 またちなみに、なのですが、一つの考え方に固執しないことも大事です。人間なんて三ヶ月もあれば全く違う考え方の別人になり得ます。思考は柔軟に。これから先これを見返してまた違うことを私は思うかもしれません。一種の記録です。

 高い山を登るのも人生、庭で小さな山を作るのもまた人生というわけです。この広大な土地の真ん中で、土あそびをしてもいいのです。それぞれの人生なのですから。

 さて、長いこと話してきましたがこれでこの回は終わりです。満足満足。今度もたまにこういう回やろうと思ってるのでよろしくお願いします。ここまで読んでくれた方、愛してるぜ。俺の愛は無償だからよ。

P.S.
 この不確かな世の中、焼いただけの厚揚げだけは正義。大根おろしとしょうがもしくは山椒でどうぞ。

いいなと思ったら応援しよう!