隷属しない言葉たち

 こんにちは、堕落です。辛い辛い社会に出た友人たちを尻目に実家の飯がうまくてどんどん太っています。今回もまた独白回です。
 そして今回めちゃくちゃまとまりがないです。日々に張り合いがなさすぎて何のやる気も起きません。誰か俺を鈍器で殴ってくれ。

 あらゆる生物は生きていくために同個体間で意思疎通を図ります。動物には主に鳴き声が、人間には言葉があります。
 言葉は意思を示すツールの一つです。今回は言葉に対する私のスタンスについて、ちょっとダラダラ書こうかなと思います。

 人間は動物より遥かに知能が発達しています。言葉を話したり、文字を介しての伝達はもちろん、絵や音楽、身振りなどの、言葉を直接的に使わないものを含めた多様な手段で意思を伝えようとします。もちろん後者であっても、受け取り手が脳内で言葉に変換する段階がありますが。
 言葉は発言者の意図に沿って意味を持つと思われますが、実際はそうでない場合がほとんどです。それを理解するのに重要なのが「受け取り手」の概念です。

 発言者は、受け取り手の理解を予測して伝達を試みます。例えば食卓で目玉焼きを食べる時。塩が欲しい場合は「塩を取ってくれないか」と言います。伝えるべき情報を全て含んでいるため、恐らく塩を取ってもらえます。手を出して、「塩」といえば取ってもらえる可能性もあります。これは受け取り手がジェスチャーからとって欲しい意思を、言葉でその目的語を理解できるからです。その人との関係は悪化するかも知れませんけれども。
 手を差し出しただけであればどうでしょうか。受け取り手が、いつも塩をかけて食べることを知っているなら塩を渡すでしょう。それを知らなければ、醤油やソースを渡すかも知れませんよね。これが正しく通じるのは、あくまで受け取り手が「この人は塩をかける人だ」ということを認識している場合で、発言者はそれを見越してそういった伝達手段を取ります。
 この双方向的な言葉のやりとりを、会話とかコミュニケーションとか呼びます。そして、これは言葉が人々に従属している例でもあります。
 つまり、言葉の意味に加えて、その人の情報が組み合わさって正しい意味になる、ということです。
 私が今回注目するのは、従属しない場合の言葉です。

 みなさんは「人生は山あり谷あり。だがその一生を終えるとき、あなたのうしろにあるのは山でも谷でもなく、ただ永遠の平地があるだけだ」という言葉をご存知でしょうか。
 これは、人生には楽しいことも辛いこともあるけれども、日々はただ平等にあって、あくまで受け取り方によってのみ形を変えるという意味です。

 これは、カール・ルーベンスというヨーロッパの医者が亡くなる時に発した言葉です。彼は生まれつき病弱で、その上両親を伝染病で幼い頃に亡くしてしまいます。一時は絶望に暮れ、自死の道を選びかけました。しかし町医者であった祖父に諭され、医者を志すようになります。
 彼は靴職人として働く傍ら必死に勉強し、ヨーロッパ最高峰の大学へと、なんと独学で入学し卒業式します。かくして彼は医者となり、多くの人を救いました。最後は妻、そして病弱な自分と打って変わって頑健な体を持った子供たち、そして彼が救った多くの患者に看取られ、亡くなりました。

 この話を聞いてどう感じたでしょうか。ちなみにめちゃくちゃ嘘です。全部私がでっち上げました。
 時と場合によって、言葉というものは誰が発言したかによって評価が変わってしまいます。発言者によって、その発言の純粋な価値がぼやけてしまうことが、私には非常に不健全なことに思えてならないのです。

 先ほどの例において、言葉は発言者に従属しているのではなく、受け取り手が勝手に従属させているのです。
 先にあげた塩の例のような、生活の上での必要な発言においては従属せざるを得ませんが、名言やスピーチのような、思考に訴えかける類のものは自由であるべきなのです。
 先ほどの言葉とその意味を前半部、発言者とその背景を後半部とします。前半部だけで言葉の意味、つまり「日常とは受け取り方によって姿を変える」は伝わるはずです。
 そのままスルスルと読み進めると、カールの悲惨な生い立ち、また尋常ではない努力が認められます。彼のパーソナリティが、名言に見てくれだけの装飾を施すのです。受け取り手はその飾りを見て、恐らくこの言葉は素晴らしいものなのだろう、と感じるのです。
 これは「誰が発言したか」が、無意識下に影響を与えているということです。その発言者が自動的にその言葉を保証することで、考えずとも正しいものだと意識してしまい、それを基準に受け取り手が変形しているのです。それでためになったと思っているなら大きな間違いです。プロ仕様の道具をまねして使って上手くなった気になっている運動少年と同じで、模倣しているだけにすぎません。
 大事なのは何を使っているかではなく、それを用いてどのような結果を残すかです。言葉は、新たな閃きをもたらすためのあくまで媒介であることを忘れてはいけません。

 従属していない(させられていない)言葉が持つパワーは無限大です。なぜなら、生活に必要な言葉と違って明確な目的がない(=思案を行える余白が多い)からです。
 カスみたいな例えをします。いつもミスばかりしてる社員が、能力の高い社員のミスを咎めたとします。言葉をフラットに受け入れることができれば、ミスを治し、その上成長すらできるかも知れません。ですがこいついつもミスしてるくせに何を、なんて思ってしまえばそこまでです。確かに立場を弁えていないかもしれません。ですがミスは実際にあるのですから、「ミスばかりしているヤツ」という装飾ばかり見ずに、まず言葉を受け取るべきです。

 日本語はハイコンテクストな言語で、言葉に具体性を持たせても持たせなくても伝わります。それだけ自由な言語であるのに、我々が枷をかけてしまうことはあまりに嘆かわしいことです。言葉を受け取るときはもちろん、使う時にも意識しするべきだと考えます。

 そして従属しない自由な言語の特性は、絵や音楽、映画などの「作品」に共通しています。
 誰が作ったか、誰が描いたか。誰々が高評価していた、専門家が酷評していた、そう言った言葉に惑わされてはいけません。誰がどんな言葉を用いて評価したとしても、その人間とあなたの物差しが違う以上、同じ評価にはなり得ません。そういった付加価値が枷なのです。
 そう言った意味で、言葉は作品でもあります。

 ちなみに、私は自己啓発本が好きではありません。何故ならその言葉たちは、その筆者の経験に基づいて意味を持つため、読んだところでタメにならない場合が多いからです。
 自由にしているからこそ、取捨選択ができます。そこに書いてある言葉を正しいものだと思い込んでいないからこそ、噛み砕くことができます。

 言葉は容易にその姿を変えます。ここで鍵となるのは、発信する場合でも受け取る場合でも、深く思案するということです。
 人生のステージにおいては、あなたが言葉を贈る立場になることもあると思います。言葉を従属させるのはあくまで受け手です。発言者が言葉を飼い慣らせないことを忘れてはなりません。
 あなたが自由に言いたいことだけ言って、真意が伝わらなかったら元も子もありません。受け手がどのような人間なのかを見極めた上で言葉を選ぶことも重要です。
 ただこの文を読んだあなたには、言葉を常に自由に受け取って欲しいのです。あなたの価値基準で測って欲しいのです。そうすれば、その言葉から多くのものを得ることができるはずです。

 今日ではインターネットが普及したことで、様々な人間の頭の中を垣間見ることができます。その情報の多さからかわかりませんが、思考を停止して言葉を縛りつけている人が多くいるように感じてなりません。
 誰かの意見を見て判断することは会話ではないのですから、すぐ答えを出す必要はないのです。何度でも自分の中で反芻して、きちんと噛み砕くべきです。わからないものをわからないと認識して学ぶことも、時には重要です。きちんと思考を巡らせて情報を取捨選択し、己の糧とする姿勢を保つ、それが自由な言葉に対する私の考え方です。

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