私が見た南国の星 第6集「最後の灯火」⑬
業務終了
海南島へ戻った時は、阿浪の事も心配だったが、何だかホッとした。こうして彼の日本滞在が始まり、私も残された業務に励む毎日となった。
4月も下旬が近くなった日の事だった。最後の許可書抹消が完了した。「あぁ~、良かった。やっと私の任務も終わりです」思わず大声を出してしまった私だった。あまりにも嬉しくなり、すぐに河本氏へ報告の電話をした。電話にちょうど河本氏が出られた。私の声は弾んでいた。
「全ての業務が終わり、会社の存在は無くなりました。もう、何も問題は生じませんから安心してください」
私の声は弾んでいた。その報告を聞いた河本氏も大変喜んでくれた。
「本当にお疲れ様でした。ありがとう!この件では社長へ報告をしますので、改めて連絡します」
しかし、今まで大変だった業務が終ってしまうと、何だか私の心の中は空洞になってしまった。これからの人生を考える暇もなく夢中で過ごしてきたが、急に不安が込み上げてきた。そんな中、私の心を癒してくれるのは愛犬のレオとジュリーだった。
5月のゴールデンウイークも終った数日後、河本氏から電話が掛かってきた。
「本社の会議最終日が決まりました。申し訳ないですが帰国をして参加をしてほしいのです」
ちょうど私も、会社廃業に関しての大切な書類と、社長の印などを返さなければと思っていた矢先だったので、早急に帰国の準備をした。
私としては、会社の廃業後は日本に帰るつもりだったので荷物を全て河本氏の事務所へ送った。愛犬は、暫く馮さんが面倒を見てくれるので安心だった。準備も全て終わり、私の荷物の大半は郵便で送った。
そして、5月15日の朝、海南島を引き揚げる日がやって来た。この日は、馮さんの母親も東京に住んでいる娘に会うために訪日の予定だった。お母さんは、広州から東京行きだが、私は名古屋だ。たまたまゲートも隣だったし、東京行きの出発は、名古屋よりも早かったので見送りをすることができた。お母さんは未だ見ぬ孫に会えると言って喜んでいた。でも、これがお母さんにとって、最後の訪日になってしまった。馮さんの母親は2008年、北京で開催されたオリンピック終了後の9月26日の夜明け、体調を崩されて帰らぬ人となった。
私は約6年間、この海南島の七仙嶺に見守られて、数多くの思い出と、数多くの中国人に助けられ生きてきた。そして、ついに終止符を打たなければならない日が来たのだ。苦しかった事も多かったが、私にとっては幸せな毎日だったような気がする。
ところが、私の苦しみはまだ終っていなかった。会社と縁が切れてからの私は、今まで以上に一人で頑張らなければならなかった。社長に大切な書類や印を渡した後、役員の皆様方から激励会を催して頂いた。会食も終わり、社長から労いの言葉や報酬を戴いた私は感無量だった。皆さんとの別れ間際、河本氏が小さな声で私にささやいた。励ましの言葉とばかり思っていたが、最後の言葉は非常に冷たかった。
「今まで、本当にご苦労様でした。私の力ではこれ以上は何もできません。頑張って生きてください」
私には理解の出来ない言葉だった。以前は、
「廃業後のあなたの生活は心配しないでも大丈夫です。ちゃんと考えていますので・・・」
そんな甘い言葉を信じた私は愚か者だった。最後の言葉は、きっと本音だったのだろう。私は、そんな河本氏に反論する気持ちも起きなかった。
「先生、色々お世話になりました。先生は転んでもタダでは起きない方ですから、今後のご活躍を期待しています。」
と言うのが精一杯だった。その後、河本氏とは連絡をする気持ちにはなれない私だった。これが最後の帰国になるかと思いながら、自分の置ける立場に終止符を打った。
今思い起こせば、その日の夜に、名古屋の日本語学校へ留学中の阿浪と久しぶりに会って、一緒に焼肉を食べた日が懐かしい思い出となった。阿浪は、日本語学校を一年で辞めて帰国してしまった。せっかく日本語能力検定二級の資格を取得できたのに、卒業まで滞在できなかったことが残念でならない。あれから数年が過ぎた今でも阿浪との付き合いは続いている。彼は昨年、四川省の女性と結婚し、子供も生まれて今は幸せな家庭を築いている。彼の日本の生活は、たった一年だったが、数多くの方にお世話になった事だけは決して忘れてほしくない。
全てが終わり引き揚げてきた日本では、私の居場所を見つけることは出来なかった。そんな寂しさを感じながら、「やっぱり海南島しか私の住む地はない」そんな想いが強くなり、四日間の日本滞在の後、海南島へ戻る事にした。
あれから10年以上過ぎた今でも、あの時の決断は後悔していない。島へ戻った事が幸せなのか、不幸せなのか、結論はまだ出せていない。少なくとも日本で生活するよりは、生き甲斐を感じていることだけは確かだ。
この日から新たな自分との戦いが始まった。やはり、それは決して楽しい事ばかりではなかった。むしろ、ホテルで勤務していた時の方が、私にとっては楽な生き方だったような気がするが、決して後悔をしているわけではない。七仙嶺を去ってから、非常に険しい自分の人生の山を登ってきた。何もかも全て自分で決断をしなければならないし、一つ間違えば山から転げ落ちるのだ。そんな人生でも、私にとって悔いはない。でも、今思えばホテルの存在が私の生き甲斐だった。あの七仙嶺で生活してきた6年間は、私の人生の中で決して無駄ではなかった。もう一度、チャンスがあればと何度も夢見たが、そんなことも今は遠い過去の思い出になってしまった。
記憶を戻せば、確かにあの頃の私は焦ってばかりいたような気がする。河本氏に言われた言葉に挑戦するかのように、再復帰のための焦っていたのだと思う。