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私が見た南国の星 第1集「蛍と夜空」⑮

 ついに第1集が終わります。これまで、読んでいただきありがとうございます。まだまだ、野村んさんの奮闘記は続きます。波乱万丈はこれからですよ。乞うご期待!

日本とは違う


 この数年間、私は生活の知恵を学んできたが、日本ではありえない事が数多くあった。馮さんと一緒に行動していると、奇怪な場面に出会う度に彼女のパワーが発揮される。一番びっくりした事は市場へ買い物に出掛けた時だった。
「お姉さん、カバンを開ける時は気をつけて下さいね。絶対、お財布の中を見せないようにしてね、ここには悪い人がいっぱいいますから」
と注意をされた。私は理解をしながらも習慣で、財布を出して現金を支払う時は、いつまでも財布を手に持っていた。すると、先ほどから私たちに近づいてくる青年がいた。野菜を買った時に財布から現金を出そうとした時私の横にいて、百元札を出した瞬間、横目で財布の中を覗き込まれたのを感じ、緊張感が身体中に走った。馮さんも、それに気づいたのか、
「お姉さん、早くお財布を閉めて!」
と、早口で言いながら青年の顔をにらみつけた。青年は私の横にいたので少し怖かったのだが、馮さんが青年と私の間に割り込むようにして入り込んでくれた。そして彼女は青年に向かって、海南語で何かを言うと、青年はゆっくりと私たちから離れていった。ホッとした私は彼女に、
「先ほど、なんて言ったの?」
と尋ねてみた。
「ちょっと、もう少し向こうへ行ってよ。ここで買うなら先に買ってもいいわよ!」
と言ったそうだ。さすがに青年も彼女の言葉に参って、離れていったのだろう。ホテルへ戻る途中、彼女から何度も注意された。
「いいですか、ここは日本とは違いますから何処へ行っても気をつけてね」
龍氏がいつも言っていた「日本とは違う」という言葉が出てきたが、このような場面では、確かに理解が出来た。
 「なるほど日本とは違いが大きい国」ということが理解できるようになってきた。中国という国は、人口も13億以上、失業者も多く、貧困に苦しむ人がどこにでもいるのだった。橋の下や廃墟になったビルの中、そして公共施設の近くにある椰子の木陰など、何処でも身体を休める場所が彼らの家だ。日本のホームレスたちとは比較にならない人たちが、営業時間が終わる飲食店の前で残飯が捨てられるのを待っている。生きるためには仕方がないのかもしれないが、現在の省政府は、そんな彼らの行き場所も失くしてしまった。こんな光景は旅行者に見せたくないからだ。経済発展のためには美しい海南島のイメージだけを、世界に知らせたいのだろう。福祉に関しては努力をしているようだが、失業者が多く貧困家庭全てに援助の手が届くとういわけにはいかないようだ。だから、窃盗や万引きをしなければ生きていけない人もいるのだと痛感した。犯罪を取り締まっている公安局も手の施しようがないくらい事件が多いと話を聞いた。
 手錠をかけられても本人は少しも恥ずかしいとは思っていないようだ。悪い事をした認識はあっても、「捕まったのは運が悪かったからだ」と思っているだけなのだろう。生活が出来ないから仕方がないと割り切れる問題ではないと思うが、彼らは現実に生きて行かなければならない。町に出かけて、初めて手錠をかけられた人を見かけた時には息が出来ないくらい怖かった。しかし、犯人は平気な顔で歩いていた。「どうして、あんなに平然な顔でいられるのだろう」と不思議に思った。たぶん、捕まってしまったのは運が悪かったが、一日の食事と宿の心配をしなくても良いからラッキーとでも思っているのだろうか。あまりにも軽犯罪が多くて拘留もしない時があると聞いた。だから、彼らの悲しい現実を眼の辺りにして言葉が出なかった。公安局の知人からも、
「貴女は日本人だから特に気をつけて下さい。日本人は、全てお金持ちと思われていますから一人で外出をしないように」
と言われていた。
その言葉を聞いた瞬間、
「中国って怖い国と聞いていたけど、ここまで酷い国なのだ」
と、この現実が本当に怖くなった。
 中国では、見知らぬ人から挨拶されると知らぬ顔をする習慣がある。それは、知らない人は怖いからなのだろう。私には理解ができない習慣だが、このような環境の中では、そんな彼等の態度も理に叶っていると思った。実際に生活をしているとだんだんわかってくることがあるものだ。私はいつも気が緩んでしまって、警戒心に欠けていると自分で反省し、気を付けているつもりだが、それでも出掛ける度に馮さんから注意をされている。
 この島へ着てから一年が過ぎようとしているが、やはり彼女の存在は今後の私にとって強い味方だ。そして業務以外でも馮さんが来てくれたお陰で充実した毎日を送れるようになった。朝から私の側で見守ってくれる彼女の優しさは、私にはないものなので勉強になっているし、何より感謝している。食事や入浴までいつも一緒、時々温泉に入って会話を楽しむ時間は、今までの苦しかった月日を忘れさせてくれた。やはり、この異国で私一人が頑張って生きようとしても無理な事だとつくづく思う日々だった。
 

1周年


 海南島に着て一年の日がやってきた。忘れもしない一年前、2000年2月26日、日本は雪が道路に積もる寒い朝だった。私はいろいろな思い出を背中に背負って、自宅マンションを出て雪道を歩いた。その時の心境は、「もう戻るに戻れない!」そんな私の強がった気持ちだった。名古屋空港を離陸した機内の窓から遠く離れていく日本に別れを告げて、この南国の地にたどり着いた私だった。
 海南島で初めて見た満天の星と蛍の光りが昨日のように思えてならない。あれから一年が過ぎたが、この海南島の七仙温泉地は、私にとっては生きる大切さを教えてくれた場所となった。
 この日の朝、一年前と同じように部屋の窓から眺めた七仙嶺は、あの日と同じ光景だった。苦しい事や悲しいことがある度に、悔しさで涙が止まらなかった日々を乗り越えて、今日を迎える事ができたのは、決して自分の力だけではない。私の海南生活一年は、多くの中国人たちに支えられて生きてきた日々だった。そして、出会った人たちとの数々の思い出は、私の人生にとって大切な宝になった。
 今まではマスコミでしか知らなかった中国だったが、海南島で生活をしてみて、生きる勇気与え、日本人として反省すべき点があるということを知った。まさか自分の人生の中で、中国で生活をするとは夢にも思っていなかった。しかし、現実に私は今こうして海南島で生きている。これから何年この海南島で生きていくのかは自分自身でもわからない。
 今思えば、一年が過ぎたころの私は、少し生活に慣れて、心のゆとりが持てた気がする。過去の人生の中で苦しかった事や、悲しかった事を少しずつ忘れさせてくれたのも海南島だった。そして、日本にいたら知ることのできなかった中国と中国人の本当の姿を知り、もっとこの目で確かめたいと思うようにもなった。海南島の夜空の星を見る度に、一年また一年と自分の人生がこれからも移り変わって行くのだろうと思う。そんな思いを心の中に秘めながら、私の海南生活一年の幕が下りた。
 

まだまだ続く、海南島暮らし


 一年が過ぎたころの私には、これからも波乱の渦に巻き込まれていくことは全く想像することができなかった。そして自分の身体に少しずつ変化が生じていくなどということは信じがたいことだった。決して今の自分に後悔をしているのではないが、もしも七仙嶺の地で自分の数年後が予測できていたならば、たぶん日本へ逃げ帰っていたかもしれない。
 人間がこの世で生きて行くためには、決して独りでは生きられないということを教えてくれた海南島に、私は、心より感謝をしなければならない。この世に生まれて良かったと思える人生があれば、どんなに苦労をしてこようとも決して後悔はしない。誰でも悲しい時、苦しい時には自分だけが不幸に思えるものだが、それは大きな間違いだ。この実話を読んで頂ければ、きっと自分だけが不幸な人間だという気持も消え去ると思う。そして、新たに自分の歩むべき道も自然に見えてくるのではないだろうか。これからも続く私の奮闘記が、何かのお役にたてればと願っている。将来を見つけるのは自分、たとえ結果が悪くても、命がある限り必ず別の道を探すこともできるのだから、今を一生懸命生きるしかない。

 2000年2月、海南島へ初めてきた頃の思い出から、今日までを振り返ってみた。さまざまな出来事の度に見た夜空の星だけは、いつも輝きを見せてくれていた。そして、これからも星の輝きだけは変わらない事を祈りたい。私が見た南国の星は、永遠に輝き続けてくれると今でも信じている。その星たちとの物語は、まだ始まったばかりだ。
 
 

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