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私が見た南国の星 第1集


 このお話は、私自身の話ではありません。海南島に来て22年、海南島で「日本の母」と呼ばれている「野村房代」さんの話です。昨年私が海南島に戻る際、野村さんも日本帰国中でなかなか海南島に戻れずにいました。海口日本人会のメンバーではありましたが、お互いに会ったことはありませんでした。ネットを通じてのやり取りが1年以上あり、昨年の8月に海南島に戻った野村さんに初めてお会いすることが出来ました。野村さんは、それ以来私のことを妹と言ってくださり、大変親しくしていただいている海南島のお姉さんです。
 野村さんが初めて海南島の地を踏んだのは2000年のことだったそうです。海南島はおろか中国のことも、中国語も全く分からず、海南島の中ほどにある、七仙嶺にある山の温泉ホテルの管理をするために来られたというのですから、ずいぶん勇気のある方だと思います。一昨年、そのホテルでの6年間を綴った「奮闘記」を見せていただき、その原稿に少し手を入れさせていただきました。今回紹介するのは、野村房代さんの書いた「奮闘記」です。毎日少しずつ出していけたらと思っています。少々長くなりますが、お付き合いください。(mei)

「私が見た南国の星」  野村房代 


 

第1集
「蛍と夜空」

     
 
はじめに 
 
なぜ私はこの島へ流れ着いたのだろう
それは誰もわからない。
この私自身さえも答えが出せないのだから。
ただ一つだけ想うのは、私は木から落ちた椰子の実だったのではないか、ということだ。
「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸を離れて汝はそも波に幾月」
 あの島崎藤村の詩の「椰子の実」のように
 
 中国最南端にある南国の島「海南島」に移住して、気が付けば二十二年の歳月が流れていた。
 海南島は「東洋のハワイ」と呼ばれ、今では経済も発展し、リゾート開発も進み、この島を訪れる外国人も多くなってきた。
 2000年2月、私の人生は、この島から新たな展開が始まった。しかし、それは決して浦島太郎が亀の背に乗ってやってきたような、楽しい夢の世界ではなかった。今思えば、椰子の実が木から落ちて、荒波に揉まれて流され、やっとたどり着いた、という感じだったのだと思う。そんな過去を振り返ると、それは私の人生に取っては決して無駄なことではなかったと思う。たとえ、私の命がこの島で燃え尽きたとしても、決して後悔する事はないと思っている。いや、後悔は許されないのかもしれない。そして、この島での生活は、普通の日本人はめったに経験できない貴重な経験なのだと自信を持って言える。
 
 海南島は日本の九州と同じくらいの大きさだ。その島の生活は、私に生きるために大切なことを教えてくれた。ここは本当に不思議な島だ。
 なぜ私が今も海南島を離れられないでいるのか。それは、この島には私の家族がいるからだ。血の繋がりのない家族ではあるが、お互い気遣い、支え合うことで、こうして今の自分が生きてこられたという事実が存在している。
 

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