私が見た南国の星 第4集「流れ星」②
ホテル4年目に突入しました。先ずは、日本でのお話です。今はコロナの影響で、日本に帰れても、再入国が大変なので、こちらに生活の基盤のある人は、なかなか日本に帰れません。野村さんが七仙嶺のホテルにいらっしゃった頃は、一年に何回か日本に帰国されていたんですね。ちょっと羨ましいです。
第4集「流れ星」
2003年3月、海南島生活四年目の春がやって来た。年明けの出来事は、あんなに大きな問題になるとは思ってもいなかったが、この頃になってやっと少し落ち着いて業務ができるようになった。しかし、例の団体客とは和解できない状況だったので、心中は穏やかではなかった。
「海南日報」に事件のことが掲載されてしまったが、客の反応は思ったよりも悪くなかったのが、不幸中の幸いだった。それは、私のことを心配してくれる同業者の方や、旅行会社の友人たちの協力があったからだと感謝している。中でも旅行会社の日本部担当「王中山」氏は、
「貴女のホテルは悪くないよ!新聞記者が私にもインタビューに来た時、あのホテルは誰に聞いてもわかるけど管理が良いホテルだと、言っておいたから心配しないで」
と言ってくれたので、少し気持ちが楽になった。社員たちにも明るさが戻り、
「さぁ、頑張ろう!」自分に言い聞かせることが出来た。
あの事件のせいで、私は心身ともに疲れきっていて、大切な仕事をすっかり忘れていた。実は、このホテルの土地証には、土地の面積や必要な記載が抜けていたので、早急に対処をする必要があったのだ。この申請に関しては、手順がまったく分からず、困ってしまった。すると、通訳の馮さんが、
「私の知人が不動産に詳しいので相談してみましょうか」
と声を掛けてくれた。私は彼女の好意を素直に受けてお願いをすることにした。翌日の午後、馮さんの知人は多忙にもかかわらず、わざわざ海口市から来てくださって、一時間ほど申請の手順を説明してくれた。土地証の記載漏れの原因については、政府へも問い合わせをして頂けたので本当に助かった。おかげで、翌朝には書類の申請も終わり、数日後の結果を待つだけとなった。
その数日後、国土局からの結果報告があった。日本にある中国大使館の証明が必要だと言われてしまったので、この件は直ぐに本社へ報告をした。ちょうど、馮さんが日本在住の妹を訪問するために、4月に日本へ行くことになっていたので、
「彼女に手続きをお願いしましょう」
と、簡単に言われた社長の言葉に、
「はい、わかりました」
と言ったが、彼女一人に任せる本社の考えが分からなかったので、私も一緒に帰国することを決めた。私は彼女を連れて京都観光をする計画も立てた。
「馮さん、今回は東京の妹さんに会いに行かれる予定ですが、中国大使館へ証明をもらってきてほしいのです」
と言ったが、私は本社の指示に従わなければならなかったので、心苦しかった。
「お姉さん、心配しないで下さい。妹と一緒に行ってきますから」
という言葉を聞いてホッとした。そして、
「馮さん、時間があれば、私と一緒に京都見物をしましょう」
と言った。前々から京都へ行きたがっていたので、私の言葉に彼女も嬉しそうだった。
日本行きは4月10日を予定していた。数日後、馮さんのビザ申請をするため、広州にある総領事館へ出掛けた。全ての提出書類も終わり、数日後には結果が出る予定だった。彼女の招聘は、東京の妹が出してくれたので、比較的スムーズに許可が下りほっとした。
2002年12月に阿浪が初めて研修で日本へ行った時も、私が連れて行き、東京や横浜などを観光した。その時、阿浪と一緒に東京駅で、馮さんの妹に初めて会った。彼女は、とても明るい性格で、テンポのよい会話が楽しかった。そして、彼女の優しさは姉の馮さんと同じだと感じた。
私と馮さんが日本に行っている間は、阿浪が私の代役を務めなければならなかったが、彼はしっかりしているので、安心して出掛けることが出来た。 京都観光については社長の承諾も得て、多額のお小遣いまで戴いた。心苦しく思いながらも、帰国の日を待ちわびていた私たちだった。