私が見た南国の星 第6集「最後の灯火」⑪
日本語学校の寮
翌朝、阿浪も眠れなかったらしく、7時には身支度を終えて部屋で待機をしていた。二人でホテルの朝食を済ませ、阿浪が入学をする日本語学校の陳氏を待った。彼は10時ごろホテルに出迎えてくれた。外は今日も大雨が降っていて、気分がスッキリしない一日になりそうだった。陳氏の自家用車に乗って学校に行った。学校は、名古屋市東区の住宅区街にあった。学校の付近は、昔ながらの商店街が今もなお存在していて、下町の雰囲気が心を和ませてくれた。私は車の中で待つよう言われ、少し変な気がしたが、陳氏の言うとおりにした。阿浪に校舎内を見せて説明をするというので、その時は何も疑わなかった。30分くらい待っていると、二人が戻ってきた。学校を後にして、次は阿浪の寮へと車は向かった。寮は学校から自転車で10分くらいのところにあり、「基幹バス通り」と昔から言われている道路沿いにあった。バスの往来も多く、付近は先ほど見学した学校とは違って静かとはいえない場所だった。でも、社長に費用の一年分を支払って頂いていたので、文句を言える立場ではなかった。無言のまま、陳氏の案内で寮に行くと、
「ここが、今日から王君の使用する部屋です。4人で使用しますから皆さんと仲良くしてくださいよ」
そんな彼の説明も耳に入らないくらい私は唖然としていた。阿浪の部屋は6畳間くらいの和室だった。南向きではあったが、窓ガラスは割れて隙間風が入っていた。4月に入っていても、外は雨も降っているので寒くてならなかった。布団は押入れの中にあったが、太陽に干していないせいかジメジメしていた。おまけに毛布や布団に掛けるシーツさえもなかった。こんな状態で、今日からこの部屋で生活をさせる事が可哀想でならなかった。暫く陳氏の説明を聞きながら、
「こんな部屋は、海南島のホテルで社員が生活していた寮よりも悲惨だわ」と思わず口に出してしまった。陳氏にも私の呟く声が聴こえたのだろう。「ここの寮生は満足していますよ。ここは寝るだけですから中国人には大丈夫です」
呆れ返った私は言葉を返す気にもならなかった。
「さて、次は一階にある食堂や入浴室などをご覧下さい」
彼は、私の不満顔も気にせず、階段を下り始めた。
「ここが食堂です。隣は入浴室と洗面所ですから、先輩に聞きながら使用してください」
もう、説明を聞くどころの騒ぎではなかった。私は次々と眼に映る光景が信じられず、すぐに出て行きたかった。食堂と言っても6畳間くらいの台所で、料理する気にもなれないほど汚くて、何だか物が腐ったような匂いが充満していた。お風呂は湯垢が溜まっていて、バスタブは黄色く変色していた。トイレも、かなり掃除がされてない状況で、便器も汚く、声も出なかった。
「本当に汚いですね!」
私は我慢ができなくて、とうとう大声でイヤミを言ってしまった。すると陳氏は、
「一昨日も私が部屋中を掃除したのですよ。いくら注意をしても中国人は聞かないので本当に困ります」
等々彼の本音が出た。彼は中国人として生まれたのだが、日本人の女性と結婚をして日本国籍を取得していた。だから、彼自身は既に日本人になりきっていた。陳氏は、急に用事ができたといって、私たちは一旦この場所で別れた。外はまだ大雨だから、阿浪と一緒に近くの喫茶店を探して、休憩をしながら今日見た寮のことなどを話した。やはり阿浪も落胆の表情が隠せないようだった。
「これが日本の生活状況とは信じられない私です。何処の学校も同じなのですか」
と、阿浪に言われた私は、言葉が直ぐに出なかった。私自身も、あの状況を想定していなかったので、このまま彼をここに残して海南島には戻れない。「阿浪、今から河本さんの会社へ行きましょう」
私は、とっさに思いつきタクシーを止めて守山区にある事務所へ向かった。本来ならば、電話をしてから伺わなければならないが、そんな事を言っていられない状況だった。東区からタクシーで20分、河本氏の事務所に到着をした。事務所に入ると数人の社員が仕事中だった。
「ごめんください。社長はいらっしゃいますか。私は海南島から着たのですが・・・」
事務所の中を見渡しても河本氏の姿は見えなかった。すると、笑顔の可愛い女性が席を立って私たちがいる玄関先へ来て、
「申し訳ございません。せっかく遠方からお越しいただきましたが、社長は急用が出来まして不在でございます」
優しく言われ、私の気分は落ち着いた。
「そうですか。私たちはタクシーで着ましたので、外も大雨ですから身動きが出来ません。社長が戻られるまで事務所で待っていても宜しいでしょうか」
すると彼女は困った顔をして、
「そうですね、外は大雨ですから大変ですよね。社長に電話を掛けてみますので、応接室でお待ち下さいませ」
本当に気配りのできる女性だった。彼女は5分ほどで応接室へ戻ってきた。「社長に連絡をしました。1時間ほどで事務所へ戻られますから、申し訳ございませんがお待ちくださいますか」
暫くすると外の雨も小降りになり、河本氏が戻ってこられた。
「あぁ、遅くなってごめんなさい!阿浪お久しぶりだね。空港まで出迎えたかったのですが、仕事が忙しくて出来ませんでした。申し訳ない!」
日本語学校のことで文句を言おうと思っていたので、河本氏の低姿勢な言動に拍子抜けをした。河本氏には、朝からの状況を何とか理解してもらえた。しかし、自分では寮の事について決断する事は出来ないので、社長に相談をしてほしいと言われた。
「実は、今日の朝、私の息子が事務所で仕事中に急に気分が悪くなって倒れました。意識不明になっていたので、救急車で愛知県医科大学へ搬送されました。私は今まで病院にいましたので、阿浪の事は気にしていましたが対処が出来ませんでした。申し訳ない!」
と言う河本氏の表情は、息子さんのことで不安なご様子だった。
「そうだったのですか。そんな事も知らず、突然ここに押しかけて来て、申し訳ございませんでした」
私は、そんな河本氏の状況もわからず押しかけてきた自分が恥ずかしくなった。暫く話をしていたのだが、河本氏は再び病院へ行かなければならないようだったので、私から社長へ報告をして、対処を相談することにした。
夕方になっていたので宿泊施設を探さなければと思い、河本氏に相談した。彼は
「わかりました。ちょっと待ってね。今探してみます」
といって応接室を出ていかれ、10分後に
「先ほど東区にあるホテルを予約しましたので大丈夫です。メルパルクと言いますが、とても綺麗なホテルですから安心していいよ」
その時の私は感謝の気持ちでいっぱいになった。そして、東区にあるホテルへ向かう事にした。
ホテルに到着後、部屋の電話から社長の携帯電話へ連絡をした。社長は、ちょうど名古屋市内にある病院を訪問中だった。取り急ぎ、簡単な報告をした。河本氏の息子さんの件もご存知だったので、対処は社長がすると言ってくださった。一安心した阿浪と私は、急にお腹が空いてきた。
「あぁ、ごめんね。今日はバタバタしていたから昼食も忘れていました。ごめんなさい!」
と言うと、彼はおなかがすいていたにも関わらず、
「いいえ、私こそ大変ご迷惑を掛けてすみません」
笑顔で答えてくれた。その言葉に私は何も言えなかった。ホテルで食事をしながら明日からの事を話し合った。