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私が見た南国の星 2集「苦しみを乗り越えて」⑯

今回で第2集が終わります。まだまだ野村さんの奮闘記は続きます。
七仙嶺のホテルでの6年間を第1集から第6集まで、一年ごとの記録です。
これからも読んでください。

お正月


 2001年も大晦日の夜がやって来た。新年を温泉地で過ごす家族が多く、客室はいっぱいだった。
 12時の時報を心待ちしている宿泊客が、ホテルの中庭で時報を待っていた。新年を知らせる時報が聞こえた時だった。館内の楽しそうな声と共に、ホテルの周辺では花火や爆竹の音が鳴り響いていた。中国の花火は、世界的に有名だと知っていたが、爆竹の音の凄さは何回経験しても慣れることができない。すこしの時間なら我慢も出来るが、朝まで続くと騒音にしか思えなかった。いくら楽しくても、新年から仕事がある人の事も考えて欲しいと腹立たしくなった。しかし、新年から怒鳴るわけにもいかないので、我慢して耳にティシュを詰め込み眠りに入った頃には、もう朝の眩しい光が差していた。
 睡眠不足の我が身を引き締めて、社員たちと新年の挨拶を交わし、年明けの初仕事が始まった。花火や爆竹の音は別として、何事もなく無事に新年を迎えられただけでも良かったと思っていた。七仙嶺に向かって「今年も頑張ろう」と、心の中で叫んだ私だった。
 元旦のお昼頃、阿浪は親友の阿浩と一緒に新年の挨拶に来てくれた。私がいつもと違って正装をしているので、ふたりはちょっと緊張したようだった。中国の一月一日は、あまりお正月という感じはないので、少し驚いたのだろう。
 この国では旧正月(春節)が本当のお正月なので、間もなく訪れる旧正月のほうがずっと楽しみなのだ。阿浪たちは、休日の三日間何処へも行かないで、夜は毎日このホテルに来てくれた。新年から何か問題でも起きるといけないと思って心配してくれたのだ。阿浩は警察官だけあって体格も良く頼もしそうな青年だった。何より、警察官がいてくれるというだけで安心だった。
 新年も過ぎると、海南島もかなり寒くなってきた。セーターを着ていても、部屋の中に暖房がないので、寒くて凍えそうだった。夜は気温が下がり寒さで眠れない毎日が続いた。温泉に入れば良いのだが、従業員が客と一緒に温泉に入る事は出来ない。中国では管理者なら許されるかもしれないが、客の立場になれば気分の良い事ではない。時々、客が早く温泉を出られた日には温泉で体を温めたが、寒い時期には温泉の終業時間まで客がいるので、温泉で身体を温めることはめったに出来なかった。本当に我慢が出来ない時には、靴下を履いて寝た。そんな私の寒さ嫌いを知ったのか、社員が温泉のお湯をバケツに入れて部屋まで運んでくれた。
寒い季節になると必ず
「ママ、寒いから足を暖めて風邪をひかないようにして下さい」
と、どんなに疲れていても社員たちは私の身体を心配してくれていた。私は、大勢のよい子供たちに恵まれて幸せだった。
「海南島へ来て良かった」と、心から思えるようになった。
 

旧正月


 2002年の旧正月が訪れ、阿浪は貴州の故郷へ帰った。馮さんは、この年も私と一緒に仕事をしてくれたが、彼女は嫌な顔も見せずに笑顔で頑張ってくれた。本音を言えば、家族の元へ帰りたいのだろう。しかし、忍耐力と責任感がある彼女は、いつの日も明るく振舞ってくれていた。
「阿浪が入社をしてくれれば彼女も旧正月を家族と過ごせるのに」
そんなことを思いながら過ごした旧正月だった。
 旧正月のホテルは何処も忙しく、社員たちは旧正月の休暇も取れない。ただ、社員たちには楽しみがあったので、不満はなかったと思われる。このホテルでは、新年と旧正月の二回に分けてお年玉が出るのだ。日本のボーナスというほどの金額ではないが、社員たちにとっては一年中で一番嬉しい出来事だ。私のホテルでは、旧正月の前には給料を早めに出していたが、ここの従業員は、大半が貧しい農民の子供たちなので、その給料は、自分の家族の旧正月の料理や、新しい洋服などを買うために使われるようだった。考えてみれば、この海南島の村で生まれ育った子供たちは、自分の将来が見えなくて、本当に可哀想でならなかった 。
 私は自分の過去を振り返り、この子たちに比べれば本当に幸せに育ててもらったのだと、亡き両親に感謝をした。あの阿浪も父親が亡くなってからは、母の苦しみを理解しているからこそ、自分の将来に対する夢と希望が大きいのだろう。母を安心させる事が彼の喜びだったようだ。だから、この会社が日本独資企業だとしても、将来が見えない状況であれば冒険が出来ないと彼は判断したのだろう。日本へ行き、将来のために頑張りたくても、母のことを考えれば、迷うのは当然のことだ。そんな彼のことを考えながら、間もなく二年が過ぎようとしている海南島生活を振り返っていた。
 日本では決して味わうことがなかったであろう喜びや悲しみ、そして苦しい事なども乗り越えて来られたのは、私は独りぼっちではなかったからだ。この島には私の家族が存在している。そして、日本での苦しかった出来事を忘れさせてくれたのも、この海南島での経験だ。生きていく勇気と、未来への希望を与えてくれたのは、私の大切な海南島の家族だった。海南島生活二年を終えるころの私は、幸せな人生が待っていると信じ、夢と希望に溢れていた。中国語も少しは話せるようになり、中国人の友人も増えて仕事にも力が入ってきた。阿浪が貴州から戻り、再会した時の幸せそうな彼の顔が、今でも目に浮んでくる。きっとその時は、思いっきり母の愛に甘えて満足をしていたのだろう。家族と離れて海南島へ来てからの、数々の苦しみを乗り越えてきた彼の人生に、新たな光りが射していたのだと思う。
 

阿浪とともに


 故郷の貴州から戻った阿浪は転職を決意してくれた。
 2002年から彼と共に歩む私の新しい人生が幕を開けた。母と兄弟の愛に包まれてきた彼の人生にも、この年から新しい夢と希望が待っていた。彼の存在を含めて、私が乗り越えてきた海南島生活の中には、確かに口では簡単に言えない数々の出来事が起こったが、七仙嶺での生活は、今思えば私の人生の楽しい一コマだった。阿浪は公務員の職を捨てて、私と共にホテルが廃業するまで頑張ってくれた。彼の母は、最初は転職に反対をされたようだが、将来の夢と希望に燃えて頑張る息子を信じて、結局は賛成してくれた。そして、彼とは今でも家族のように繋がっている。ここから生まれた絆は、目に見えない光りのようだと今も思っている。
 七仙嶺の温泉地で初めて見た夜空の星は、数え切れないほどの美しい星座の輝きは、今でも忘れる事が出来ない。あの星たちは、いつも私を見守ってくれていた。そして、七仙嶺の蛍たちも私にとっては大切な家族だった。いつの日か、またあの蛍たちに出会えると信じて、今日も明るく元気で過ごしたいと私は願う。
 この七仙嶺の生活は、たった六年だったが、決して忘れることができない不思議な体験だった。命の尊さを教えてくれた七仙嶺や現地の皆さんに「本当にありがとうございました。」と、心から感謝したい。   
 どんな障害を背負っていても、夜空に輝く星は誰にでも平等に光を与えてくれる。苦しいことを乗り越えるだけの勇気さえあれば、明日は必ずやってくる。明日という字は「明るい日」と書くように、自分の未来に明るい花を咲かせることを信じれば、きっと、誰にも負けない綺麗な花を咲かせることが出来るだろう。
 
 
 
 

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