私が見た南国の星第 第6集「最後の灯火」⑯
安徽省での半年
これがきっかけで私は安徽省で暮らす事になった。でも、この生活も長くは続かなかった。その土地に慣れる事が出来なかったというのが一番の理由だったが、やはり社長のやり方が理解できないということもあった。七仙嶺のホテル時代は、社長も寛大な心の持ち主だったので、日頃の業務を煩く指摘をされなかった。しかし、この社長は、料理長を客の前でも平気で注意をしたり、小さな問題でも管理者に任せられず、いつも先頭に立たれて指示をしていた。社員たちも笑顔で仕事をしているという感じではなかった。私が顧問として赴任してからは、どんな社員にも笑顔で冗談を言うので、社員たちも自然に笑顔が出るようになってきたのだが、馮さんが可哀そうなことになっていた。彼女は社長から厳しい事を言われて、毎日のように泣いていた。そんな彼女の事だけではなく、社長のやり方についていけなくなっていたのだった。また、一緒に連れてきた愛犬のレオとジュリーも、この安徽省の生活になじむことが出来なかった。結局、この安徽省とも縁がなく、私は海南島へ再び戻る事にした。あの社長との出会いも、今では大切な思い出になった。
私の人生はまた、スタート地点に戻ってしまったの。泣いても笑っても、明日という日は必ずやって来る。暫くは、自分を見つめ直す良い機会だった。やがて、気がついたら2007年も終わり、北京オリンピックが開催された2008年の年初めとなっていた。
この年は、楽しい事、苦しい事、そして悲しい事の連続だった。安徽省に移る前に、海口市で一緒に暮らしていた阿珍は、保亭県に戻ってからは寮生活をしていた。我が子のように接してきたので、彼女も再び海南島へ戻った私を喜んで受け入れてくれた。
「阿珍元気ですか」
そんな私の問いかけに、電話の向こうから元気な声が聞こえてきた。
「ママ~!お帰りなさい。私は元気です」
そんな彼女の声に涙が出そうな私だった。私の都合で、海口市の学校へ通わせたり、再び故郷へ返したりと身勝手なことをした。でも、彼女は恨み言など言わず素直に育ってくれていた。この半年余り、阿珍の事は一日でも忘れた日はなかった。でも、あの時は彼女を連れて安徽省へ行かなかった事だけは正解だったと思っている。
こうして阿珍とは、再び母子関係が戻ってきた。「さぁ、今日から再出発だもの、頑張ろう~」私は星の出ていない海口市の夜空を見上げ、懐かしき七仙嶺の星を思い浮かべていた。
夏子さんの結婚
北京オリンピック開催があったこの年、鮮明な記憶が今でも残っている。北海道で生まれ育った心の優しい夏子さんが結婚した。この結婚には辛い思い出もある。姉と慕っている彼女の母は、中国人との恋愛には賛成できなかった。確かに我が子の幸せを祈れば、国際結婚は不安でならないだろう。当時は私までも母親に恨まれてしまっていた。
「どうして、あなたは夏子の味方をするの!あなたが賛成だからと娘から聞きました。私が産んだ子ですから、今後は一切あの子に手助けしないで!」
と、ものすごい口調で叱られた。でも、彼女は両親の反対を押し切って国際結婚を選んだ。私は北海道の両親に内緒で、馮さんと結婚式に参加した。
「夏子さん!上海まで出向く以上は、必ず幸せになってほしい」
と、電話で釘を刺した。そうでも言わなければ私の立場もなくなるからだ。実のご両親が反対をされている結婚なのだから、新郎の母親や親戚も気分は良くなかった。私は彼女に頼まれて母親代理として出席した。我が子の結婚式にも参加できなかったので、感無量だった。結婚後も、彼女は懸命に母親を説得し続けた。その甲斐があって、やっと2011年、北海道の実家へ親子三人で里帰りが出来るようになった。そんな家族の絆が羨ましい私だった。
やがて、北京オリンピックが幕を開け、世界中から注目を浴びて活気溢れる中国となった。何処の省もオリンピックの明るい話題ばかりだったような気がする。発展途上国だった中国が、オリンピックを開催できる大国になったのだ。人民の明るさは、やがて訪れる経済成長への期待も大きかった。