自分に戻る時間としての「とうちゃんの夏休み」
これ、私もモヤモヤしていたところに山本さんが記事にしてくださったのですが、私自身はこれが「男女差別」とまではいかない気がして、どのレベルでとらえればいいのかなと思うのでした。
広告である以上は平均的な受け手に向けて簡潔に刺さる表現をしなければいけない制約の中、専業主婦家庭を前提として夏休みのあいだはずっと子供の相手をしなければいけないお母さんを念頭に作られているということなのでしょう(もちろん、山本さんはそんなこと承知されているはずなので、これはいわゆるマジレスなのですが)。
我が家でもようやく子供の夏休みが終わり、ようやく一人の時間をもつことができた妻から喜びのLINEが飛んできたのですが、折しも私は2時間半の通勤の初っ端で局地豪雨に見舞われ膝から下をすっかり濡らして電車に揺られているところだったので思わず苦笑したのでした。
少し言い返したい気もしたものの、私が向き合っている毎日のタスクと、彼女が毎日向き合っているタスクはそもそも内容も質も違うことを思い出して、このしんちゃんのリンクを送ってあげたのでした。
この半年ほど、介護の問題があって私が子どもたちを何日間か連続で世話することが増えているのですが、それは仕事とはまた違った難度と、感情の管理をともなう役割だということがわかります。
大人の苦労をまるで意識することなく無邪気にあそぶ子供の声に仮託して、そんなおかあさんの苦労をねぎらう広告はたしかに共感できるものだと思う一方で、前提とされている専業主婦の背景となってぼやけている「とうちゃんの夏休み」はこの場合なにを指すのだろうかと考えるわけです。
それはきっと家族から開放されてどこかにいくのとは違った意味での「とうちゃんの立場からいったん降りる時間」のことなのだろうと、そこまでは考えが至るのですが、じゃあ具体的にそれがどういう時間なのかはイメージがつきません。
とうちゃんは、いわば仕事をしている最中は家族からいったん離れているひとが大半ですので、それも「とうちゃんを降りてる」ともいえますが、もっと根本的に「自分に戻る時間」でもあるのでしょう。
と、ここまできて自分が去年出した「知的生活の設計」で書いた、どんなに小さくても書斎を作り、そこで自分自身をとりもどす時間こそが、あるいは「とうちゃんを降りる時間」「親を降りる時間」なのかなと考えたあたりで、また2時間半電車にゆられて帰る時間ですから、今日はここまでで。