傲慢と手放し
ラジオを聴いていたら
「加齢による傲慢」というショッキングなワードが飛び込んできた。
老害と言う言葉を耳にする事があるが、それはまさにこの「加齢による傲慢」がピタリと当てはまる事に気がついた。年齢を重ねて素敵になる人と、そうでない人の違いは、この傲慢にあるようだ。
3年ほど前、哲学の勉強会へ参加した事がある。
参加者は、事前登録とカフェ代だけの徴収という軽い集まりで、20名弱の20代~70代の実に幅広い年齢層のメンバーだった。なんのヒエラルキーも無いフラットないい感じだった。
主催者が、
「最近、良かった事はなんですか?」
という問いを投げかけ、参加者は、皆の前で個人の経験を順番にシェアしていく。
その時の唯一のルールは、誰もその人のいう事を賛同も否定もしない、ただ傾聴するというものだ。
テーマが「良かった事」だったので、どの参加者の話を聞いても比較的優しい雰囲気で全体がまとまっていた。
「洗濯ものを彼が干しておいてくれた」
「玄関に花が飾ってあった」
「上司が仕事を褒めてくれた」
などなど思わずほっこりするエピソードが多かった。
そして、会の後半で70代の男性の番が回ってきた。
するとこの方は、
「友人を論破できた事が良かった」
と誇らしげに言った。
論破という表現が穏やかではなかったので司会者が
「どういう内容ですか?」と質問したところ彼は、こう話した。
「相手が手も足もでないように理論で追い詰めて悔しそうな顔をみた時に
”勝った”と確信した」
会のルール上、誰も彼に否定も賛同もしない。
ただ、場の空気感と同様に私は、こう思った。
「老害とは、この事だ。」と。
以前、仲良くしていたやはり70代の研究者のおじさんがいた。
彼は、とても頭の回転が早く、いかにもIQの高い方で、仕事もいいところにお勤めされた後、独立し今も現役で何かの商品を研究開発をしているそうだ。
ある時、ほんのひょんな事から、こちらの仕事の話になり、おじさんからの提案が法律に引っかかる可能性があったので、その提案をやんわりお断りしたことがある。
すると、彼は突然、「失礼じゃないか!」と態度を一変させた。
仲良くしていたと思っていたので、突然の豹変ぶりに驚きを隠せず、相手を傷つけたくない気持ちから謝る事を選択した。
しかし、こういう事が、度々あり、私は、もう謝る事に疲れてしまった。
そして、ある場面が蘇った。
哲学の会の高齢者の論破事件だ。
エリートの高齢者は、何故か、論破がお好きなようだ。
そこで私は、高齢者の論破に一つの仮説をたててみた。
①70代の方々が社会の中心で活躍していたころ、日本は経済大国と言われ、上司の命令にも従順に身を粉にして日本の経済を支えてきた。
②その過程の中で、上下の区別が明確で、目上の人には逆らわず、年下や女性には、敬意を払わなくても許される事が刷り込まれていく。
③この暗黙のルールにより、時代が女性蔑視発言を問題視する今でも無意識に発動されてしまう。オリンピックの元会長などが、家族に怒られないと自分の過ちに気が付けなかったのは、このいい例だ。
70代のご高齢者の方々が経験した「自分を捧げ、上司に対しては我慢するのが、当然。」という考えが、「自分達が上の立場にたったらそれを下の世代にしても許される」という考えをもたらす。
いわゆる、論破や蔑みのをする権利が、与えられているという集合意識かもしれない。
論破が好きなインテリの高齢者は、異なる意見を敗北として捉える風潮があり、これは、その時代の産物とすら思えてくる。
これが、「加齢による傲慢」だ。
いつの時代も若年層は、人生の先輩方に敬意を払ってきている。
しかし、その度合いや方法は、世代によって変化している。
間違った常識の上に生き続けている人は多い。
高齢の方々に対する敬意は、日本にも私の中にも存在するけれど、これ以上は無理だと思った時点で、論破し返さずに距離を取って身を守る作戦に変える事にしている。
我慢して、迎合する事には、発展性もいい人間関係も作らない。
誰かを論破して気持ちいいは、ただのエゴである。
手放して、軽やかに生きているご高齢の方も多いのだから、そういう人たちと豊かな時間を共有していきたいと思う。