10センチメートル

ああ、結局あなたもあたしを泣かせるのね。
寄り添って優しくして甘い言葉を囁いて青虫が青葉を食べるようにあたしの心の深いところを少しずつ蝕んで小さな穴をだんだんと広げていく。

一度空いた穴はもう二度と元には戻らないから似たような形の別の何かを被せて見えなくしてあたしはあたしの心を誤魔化すしかないの。

そうやって継ぎ接ぎだらけのパッチワークみたいになったあたしの心の縫い目をまたいつか誰かが食い破るんだ。
気付いたら元の色も形も分かんないくらいになってそれはもう元のあたしですらないのかもしれない。

あなたが付けた首元の大きな痣にも見えるキスマークは数日だけのしるしだけれどあたしの心の痣はきっともっとずっと長いことあたしに残ってるんだわ。

痣色の水たまりがあなたがあたしを好きってことの証明みたいで嬉しかったのに鏡を見るたび色褪せた写真のように喜びがぼやけてそれを補うみたいに不安がにじみ出してくるの。

あたしがあなたの耳と背中を触るとくすぐったがるのも、あたしの性格や不安に思うことをほとんど完璧に理解してくれるのも、あたしを安心させる言葉をちゃんとくれるのも、全部いままでに他の誰かとしたことだからでしょう?
今だってほら、あなたはあたしにキスをしてぎゅっと抱きしめて心底寂しそうな顔をするけれど昨日と同じ服のまま他の女が待っている家に帰るんでしょう?

次にあなたに会うときもこの首にはまだきっとあなたのしるしが残っているけど、あたしの心の隙間はもう違う誰かに被せられた薄い布で覆われているかもしれないのに、それを知っても何も言わずあたしを抱きしめるあなたが心底憎らしい。

この気持ちが恋なら恋ってきっとドブみたいに濁って汚れて嫌な匂いを放っているのね。
アスファルトのくぼみに溜まった雨水のように美しい空を反射することもなく、ただその茶色の顔をゆらゆらと揺らしてあたしを嘲笑うの。
底なんてなくて出口もなくて片足を突っ込んでしまったら最後、抜け出せなくなってズブズブと沈んでいくだけなんだわ。

泥沼から脱出することはきっとあたし一人じゃできないから、時間をかけてその汚い水の中に慣れてしまって何食わぬ顔で息ができるまでじっと身を任せているしかないのね。

あたしにロープをくくりつけて腕を掴んで引っ張り出してくれる誰かを待っている間にもあなたはあたしの首を掴んであたしの右手に指を絡めて一緒に下へ沈んでいこうとする。
そしてあたしが頭の先まで沈んでしまったら自分は何食わぬ顔で上へ泳いで沼から出ていくんだわ。

残されたあたしが泣いてることも知らずにね。
それでいいんじゃないかしら。

だってもうあたしは腰までちゃんと沼に浸かってしまっていて、片方の手は別の男の手を掴んでいても反対の手ではあなたの首に腕をまわしてあなたが囁くちんけな愛の言葉にうっとりしているんだもの。

もう逃げられないわ。
でも、あなたも逃さないわよ。

一緒に頭の先まで沈んでそのまま息もせずに長く終わらない甘いキスをしましょう。

あなたが逃げるのを諦めたらあたしはあなたに最後の愛をつぶやいてから顔面を蹴り飛ばして陸へ上がるわ。

若くて馬鹿で可愛いあたしがあなただけのものになると本気で思い込んでいるあなたにはそのくらいがお似合いよ。

あたしにはあなたしかいないの。
なんて死んでも言ってあげない。

あなたが好きよ。
でもあの子も好きよ。

あなたとあたしは似ているからどんなに甘えてもひっついてもそれぞれ違う人のところへ帰っていくの。

あたしはね、東京湾みたいに濁った水より沖縄の澄んだ海へ浸かりたいのよ。

だからもうちょっとだけ一緒にいて。
あたしが海へ帰る前に。
10センチメートルのこの痣が消えるまで。

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