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#首吊り自殺に対する雑記

初めてのnoteを書くものです。

自分自身、本当はベンチャー企業に興味があり、その情報伝達ツールとしてnoteを利用しようと考えていたのですが、それを書こうと近所のマクドナルドに向かっているときにTwitterを見てしまったことがきっかけで方針を変えて、この記事を書いています。


前提として、
①自分は現在21歳で、大学に通う経済学部系統の学生ですので、倫理学ないしは心理学等の知識は不十分です。
②この記事をバズらせて今後のユーザー獲得に…みたいなことも一切考えていません。どうでも良いです。
③記事は被害者については何も言及していません。また、画像をあえて1つも使っていないのでご安心を。
④ですが、一応間接的には事件に言及しているものとして捉えられかねないので、気分を少しでも害した場合はすぐにブラウザバックしてください。
それを了解した上で下記をお読みくださると幸甚です。

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目次
0 この記事を書く目的
1 Twitterのトレンドとその問題性
2 首吊り写真をSNSにあげるのを問題があると考える論者(以下、ある論者と省略)の意見
3 首吊り写真をSNSにあげても問題はないと考える論者(以下、ない論者と省略)の意見
4 自分なりの見解_________________________________________________________________________________

☆   0 この記事を書く目的


この記事を書く目的は2つあります。

1つ目は、自分の以下に書く価値観(想い)が、ある論者・ない論者に関わらず、理解してもらうためです。

最近では猫も杓子も口癖のように「情報化社会は・・・」とつぶやいていますが
私自身の見解として、これからの情報化社会は
・価値判断の軸や対象が増える
・故により多様な価値観を持って人が増える
と考えています。


また、それに伴い、
「あれ??自分のある事象に対する価値観ってマイノリティなんじゃない?でも、自分ではそう思ってるんだけどなあ…」
という現象が多くなると思っています。

そしてもし、自分がマイノリティなのかなと不安になった時に大切なのが、
①相手の価値観を一度は受容した上で、
②自分の価値観はどう変わるのか・変わらないのかを考え、
③それでも不安なら同じ価値観の人を見つけること
だと考えています。

私は、
①自分と違う価値観をさらってもらうために
③もし自分と同じ価値観の人がいるならば、その人向けに
「ここに同じ価値観の私がいるよ!!」という表明のために
この記事を書いています。
(「自分と同じ価値観な人なんていないじゃん」と言う人に対しては、僕自身、無限大に種類豊富な価値観の束のようなものを価値観と言っています。そしてこの記事で話す価値観は無限大の価値観の束の1つ1つについてを話しています。)


2つ目の目的は、自分がこの問題を感情ベースで把握してしまっているので、言語化するためという目的です。


☆   1 Twitterのトレンドとその問題性


Twitterのトレンドについて。
1/6の15時過ぎにTwitterを見てしまったことから始まりました。

#首吊り自殺

最初はこのトレンドに対するツイート数が多かったからという理由で詳しく見てみました。

そして驚いたのが、
自殺をするorした写真がSNSで広まってしまっていることです。

これについての問題性(論点)として、私は
①首を吊ろうとしている人を撮影すること
②撮影したものをSNSにあげること(人に共有すること)
だと考えています。


このうち、①のみをする人は少ない、つまり①をする人は②をしているだろうという前提に基づいて、今回は②の問題性について議論していきたいと思います。

☆   2,3の前に…
以下では、ある論者とない論者、SNSにあげた人の関係性について、ある論者とない論者が対立要素であり、ない論者がSNSにあげた人を包含しているという関係性を念頭に置いて記事を書いています。


☆   2 首吊り写真をSNSにあげるのを問題があると考える論者(以下、ある論者と省略)の意見

ある論者の意見としては、

・見てて不愉快である系
・モラルがない、人間性がない系
・いいねを稼いで承認欲求を満たすな系

の3種類の意見が存在していて、Twitterのトレンドを調べた上での実感値ではありますが、
圧倒的に2つ目と3つ目の意見が多かったです。


☆   3 首吊り写真をSNSにあげても問題はないと考える論者(以下、ない論者と省略)の意見

ない論者の意見としては、

・SNSには何をあげても個人の自由である系
・いらん正義感振りかざすな系
・将来こういう事件に遭遇した際への耐性を身につけておく必要がある系
・事件の解決に役立てられる系

の4種類の意見が存在していて、実感値として1つ目の意見が多かったです。

☆   4 自分なりの見解

自分なりの見解としては、最初にこのトレンドを見た際には、
「え、なに?SNSにあげる人って頭おかしくない?信じられない。」という価値観を持っていました。なんなら、画像を見てしまい、吐きそうになってしまいました。
しかし、ない論者の意見を見てみると、(・将来こういう事件に遭遇した際への耐性を身につけておく必要がある)(・事件の解決に役立てられる)というような意見も存在していて、個人的にはなるほどと思いました。
それを踏まえた上で雄弁に自分の意見を述べるとするならば、やはりSNSにこのような写真をあげることに対しては①適法性と②倫理観に関して問題があると考えます。


①適法性について。

ここまでの記事は被害者が亡くなっていることを想定して書かれていますが、もし被害者が生存していた際に、SNSにあげられた写真は肖像権侵害で法律に違反しています。また、もし仮に亡くなっていたとしても日本の法律に死後の肖像権について明文化されたものが存在していないだけであり、もちろん裁判等で訴えられる可能性も秘めています。


②倫理観について。

前提として、倫理観はまさに人の価値観に依ってしまうので、②の理由は理由としてはかなり弱いものとなってしまいますが、この記事を書く目的に則って書きたいと思います。


そもそも、ない論者の意見については
①SNSにあげることを擁護する意見
→SNSには何をあげても個人の自由である系、将来こういう事件に遭遇した際への耐性を身につけておく必要がある系、事件の解決に役立てられる系
②ある論者に対する反駁として
→いらん正義感振りかざすな系

の意見が存在します。
このうち、②に関しては、SNSに当該写真をあげることに問題がないことを主張する意見とは関係ない意見(つまり論理的にSNSにあげることに問題がないことを肯定し得ない意見)なので、言及しません。(もちろん同様にして、ある論者のいいねを稼いで承認欲求を満たすな系の意見も排除することができますが。)

①に関しては、まずはそれをSNSにあげることが適切であるかを考えていきたい。

つまり、事件の解決に役立てたいなら警察当局にDM等すればSNS上で投稿するよりも間違いなく警察の目に止まるだろう。

また、将来こういう事件に遭遇した際への耐性を身につけておく必要があると考えるような教えてあげる君は逆に耐性がない人で、それを見ることで病める可能性がある人もいることを教えてもらった方が良い。

そして、一番マスでありそうなSNSには何をあげても個人の自由である系の人に関しては、法律等を抜きにしても本当に個人の自由だと思うのだろうか?

どんな例でも良いのだが、

その人はもし自分の家族が死ぬ瞬間を赤の他人が撮影してSNS上にアップロードされても本当に何も思わないのだろうか?

その人は自分がどうしても見たくないものがSNS上にアップロードされて偶然見てしまうことに関して本当に厭わないのだろうか?

多分自分にとって見たくないものが存在しないor見せたくないものが存在しないという人は存在しないのだろうか?

(極論を言うならば自分のクレジットカードの番号や暗証番号をSNS上にアップロードしてもどうとも思わない人など存在しないはずである。)


また、そこで写真に撮られる環境が存在していたのが悪いと反駁するのもやめにしたい。

なぜなら環境は本人の意図に関わらず偶発的に発生しうるものであり、そしてそれはわざわざSNSにアップロードすることを正当化する理由足り得ないからである。



覆水は盆に返るわけがないので、今度このような事件があった際には、ある論者もない論者も一度でも良いから自分のアンテナの感度を上げて、ある情報に対してどのように対処すべきかを考えてみては良いだろうか。と締めたい。