見出し画像

鬼滅の刃の究極的な魅力「竈門炭治郎」についての考察

こんにちは。noteで初めて本気で書きます。

本気かつ、全集中で書きたいのは、やはり鬼滅の刃について。

特に主人公「竈門炭治郎」についてです。

言わずもがな、日本中いや世界において、絶対的な2020年度の人気作品「鬼滅の刃」。もちろん漫画自体の素晴らしさは皆さんご体感済みだと思います。

その面白さについては、様々なところで言及されているところなので、あえてここで触れることはないと思います。

ここで僕がやはり全集中したいのは、主人公の「竈門炭治郎」についてです。

鬼滅の刃がここまでヒットしたのは、やはり主人公の魅力によるものと僕は思ってます。

炭治郎の無垢さ、あのやさしさ、強さ、悲しみを抱えた上での優しさ、殺伐とした現代に生きる私たちにとって、炭治郎は「希望」以外の何者でもあり得ないとわたしは思います。

現代に生きる私たち、特に日本人には辛いことが多すぎます。

頑張っても報われない社会、自身の保身だけを考えて国民のことを考えない政治家、自由主義という名のもとに切り捨てられる弱者たち、正直者がバカを見る世の中、不条理でいっぱいのこの世の中で、「炭治郎」のあの無垢さは、私たちの心に希望を見出します、「人間って本当は捨てた物じゃないんだ」って本気で思わせてくれます。

特に、映画にもなった「無限列車編」の一コマ(7巻)で、夢の中で炭治郎の夢の中に入った青年に起こる変化、それは、炭治郎の精神の核によって浄化されるという変化です。過ちを犯しそうになった青年に改心させる程、炭治郎の精神は清く、気高く、そして暖かかったのです。それはまさに、全愛なる母、マリアのように。

僕はこの一コマを読んで、小説「カラマーゾフの兄弟」の青年「アリョーシャ」を思い出しました。アリョーシャは炭治郎と同じく、生まれながらに清く、無垢で無限の暖かい心を持った青年です。

小説「カラマーゾフの兄弟」のラストで、アリョーシャは、かわいそうな少年、図らずも幼くて亡くなった少年「イリューシェチカ」の墓の前で、イリューシェチカの友達に向かって、以下のように語りかけます。

「いいですか、これからの人生にとって、何か素晴らしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作りあげるなら、その人はその後一生救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。」

炭治郎の、あの暖かく優しい精神の核は、おそらく、アリョーシャのいうような、子供時代の神聖な思い出、すばらしい思い出があったからこそ出来上がり、悲しい青年の心を癒したのだと思います。そう、炭治郎が禰豆子と共に培った、家族の素晴らしい思い出があったからこそ!

だからこそ、私たちは「鬼滅の刃」に魅力を感じるのです。この世の中にきっと「希望」は残っているのだと認識するために、自分の子供時代にきっと1つは素晴らしい思い出があったはずだと感じるために。

アウシュヴィッツに収容されたある哲学者(フランクル)は言いました。絶望の中、死んでいく人間と、生き残る人間の違いは、「希望」があるか、ないかだと。

こんな殺伐とした世の中でも信じたい、きっと「希望」はあるのだと。自分の子供時代に希望はあったのだと。

その「希望」を今、「竈門炭治郎」に我々は見出している。

そう考察したいです。きっと、「世の中捨てたもんじゃない」という人たちが、鬼滅の刃のヒットを作っていると。

そういうわたしも、その一人なのです。

世の中、捨てたもんじゃないよね、きっと。と思い願って。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?