なぜ生きるのか?
なぜ生きるのか?あなたも一度は考えたことがあるのでは?でもその前に考えるといいのが、「なぜ生まれてきたのか?」ということ。
ヒトはなぜうまれてくるんでしょうか?生物学的に医学的にいうと精子と卵子の結合により受精したことで生命は誕生します。それでも十月十日命が続いて生まれてくる命もあれば、途中で流れてしまう命もある、医学や人間の力の及ばないところでなにがあるのだろうか?と考えたことがあります。
仏教ではそのことをこんな風に教えてもらいました。「ひとは魂を磨くためにこの世に誕生するのです」と。
そして、お釈迦様はこんなことをおっしゃっています。「人は肉体を持つことで、この世の苦しみが始まるのだ」と、では生きることは苦しみなのでしょうか?そうではなく、苦しみこそが「人生思い通りにならないことが魂を磨き、魂のステージを高めてくれることなのだ」と。そして、苦しむためには肉体が必要なのです。だから地球にやってきたのだと。いかがでしょうか?お釈迦様の教えも素敵ですね。
自分の人生の中に起きる苦しみはその人に与えられたギフトなのだとしたら、同じ出来事も大きな意味をなし、自分の魂を磨くためにどう考えどう行動するのかを自ら選ぶことができそうです。(頭で分かっても体(煩悩)がいうことを聞かないってのがありますが・・)
神との対話では「人は「違い」を確認するために生まれてくる」と書いています。
神との対話の本の中に書かれている「光の話」が私は大好きです。
「小さな魂と太陽」の話。
かつて、自らが『光』であることを 知っている魂があった。
これは新しい魂だったから、体験したくてたまらなかった。
「わたしは光だ」とその魂は言った。「わたしは光だ」。
だが、いくら知っていても、いくら口に出してみても、
体験に変えることはできない。
この魂が生まれた領域では、光しかなかった。
どの魂も偉大で、どの魂も素晴らしく、
どの魂も神々しい光を受けて輝いていた。
その小さな魂は、まるで太陽の前の一本のロウソクのようだった。
偉大な光の中では、光の一部である魂は自らを知ることができないし、
自分が何者であるかを体験できない。
小さな魂は自分自身を知りたくてたまらなくなった。
あまりに知りたがるので、ある日、神は言った。
「小さいものよ、その望みをかなえるにはどうすればいいか、分かるか?」
「どうすればいいのですか、神さま。私は何でもします!」
と小さな魂は答えた。
「おまえはわたしたちから離れなければならない。
そうして、闇(やみ)を求めなければならない」と神は言った。
「闇というのは何ですか? 聖なる方」 と小さな魂は言った。
「それはお前ではないものだ」と神は答え、
小さな魂は理解した。
そこで、小さな魂は全体から離れ、別の領域に行った。
その領域では、魂はあらゆる闇を体験する力を持っていた。
そして、小さな魂は、あらゆる闇を体験した。
その闇のさなかで、魂は叫んだ。
「父よ、父よ、どうして、あなたはわたしを見捨てたのですか?」
だが、神は一度も人間を見捨てたことはない。
常にそばにいて、人間が本当は何者であるかを思い出させようとしており、
いつも我が家に呼び戻そうとしている。
だから、闇の中の光になりなさい。闇の中にいることを呪ってはいけない。
まわりが自分と違うものばかりでも、
自分が何者であるかを忘れてはいけない。
すべての創造物をほめたたえなさい。
最も大きな試練が、最も偉大な勝利になる可能性がある。
人間が生み出す体験は、自分が何者であるか、そして何者になりたいか、
という宣言なのだから。 人生とは、概念として知っていることを 「体験的」に知る機会だ。人間は人生を使って、真の自分、そうありたいと思う自分を新たに創造する。だから、人生は発見のプロセスではなく、創造のプロセスだ。
創造のプロセスとは、自分は何者かであるかを知ろうとするのではなく、
何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力し続けることだ。
それは絶え間ない喜びと体験であり、一瞬一瞬が充分に満たされた人生である。
人間はいつも自分の現実を創造している。
人間には、それが分かっていない。
それどころか、それがすべての「生」の目的だというのを知らない。
人間はそれを知らないから、すべての決定がどれほど重要で、
どれほど影響の大きなものかに気づかない。
人間がする決定はすべて、何をするかではなく、
その人が何者であるかを決めている。
それが分かり、理解できれば、すべてが変わる。
人生を新しい目で見ることができるようになる。だから、身体を持っている間に、自分らしさを 十分に実現すること、
真の自分にふさわしい存在になること、それを 目的としなさい。
それが魂の目的である。
いま「愛」なら何をするだろうか。
これを常に考えなさい。
まわりが自分と違うものばかりでも自分が何者であるかを忘れない
違うということを体験するために地球に生まれてきたのだということ。人と違うことを体験するために肉体を持って生まれてきたのです。
「それならもうちょっとましな家に生まれたかった」
「親ガチャ」ですか?笑
それすらも自分で選んで生まれてきたという人もいます。
昔、娘が5歳ぐらいの時、ボーイスカウトのリーダーをしていた私は娘も一緒に連れて、神戸の六甲山に登ったことがありました。彼女はとても探究心旺盛な子どもだったのですが、どうも野外が好きではなかったようです。ちなみに部活も「バスケ部」室内競技でした。そして山登りの間中「しんどい!」「山登りなんか嫌いだ!」「暑い!」「喉乾いた!」と、考えれる限りの苦情をぶつけてきていました。そして頂上でお昼ご飯を食べて少ししてから下山となった時に娘が言った一言が色んな意味で衝撃(哲学的?)だったので今でも時々色々なシーンで思い出します。
「どうせ降りるのに、なんで登ったの?」
「そこに山があるから」と言いたかったのですが、その時の私は「汗かいて気持ちいいでしょ?」とか、「頂上で食べたおにぎりは格別だったよね」とか、色々と言い訳がましいことを並べ立てて、その場を取り繕いました。でもその時の娘の一言は「生きることの本質」にもつながる深い言葉だなと今なら思うのです。
「どうせ死ぬのになんで生まれてくるの?」という風に受け取ることができる娘からの問いだったのです。
先に書いたお釈迦さまの「魂を磨くため」でしょうか?
それとも神との対話の中にあるように「違うことを経験するため」でしょうか?
結果はどちらを選んでもいいのだと思います
デジタル化により人間の24時間は大きく増えた?
人が肉体を持って地球に誕生してから500万年とか言われています。二足歩行をして草原で暮らした類人猿達です。その頃から文明は大きく進化したことで、人は他の動物を大きく引き離し「文明」を謳歌することで様々なテクノロジーを駆使することができるようになりました。
地球上での1日24時間は変わらないのだけれども、そのクオリティは大きな変化を遂げています。
例えばGoogleの検索エンジンがあるだけで、過去には様々な文献で膨大な時間を使って調べないとわからなかったことが、一瞬でわかる時代。これは大きな時間短縮になるのです。
例えばAmazonで日本中どこにいてもほぼ買い物ができほとんどの商品が無料で購入することができる。これも、スーパーや百貨店に行く時間短縮となります。
つまり人類はテクノロジーを使うことで1日の時間を何倍も手に入れることができたということなのです。
いま「愛」なら何をするだろうか。
こんな時代だからこそ、自分の時間をどう使うのか?が問われますし、その使い方そのものが地球にやってきた本当の目的であり、時代はやっと、その目的だけを追いかけることができるステージに上がってきたのだと思うのです。