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ドイツ軍が町で唯一、焼かなかったカフェ(下)

おとなの街歩き ベルギー2


 

レトロなGambrinusのフラン(プリン)。自家製アイスクリームも絶品。

ベルギー、フランダース地方ルーヴァン市
Brasserie Gambrinus
Grote Markt 13, 3000 Leuven 


 
今に残る「しこり」と今に続く政治
 
 長いスパンで歴史を見れば、ドイツとベルギーの関係は、決して悪い時期だけはない。
 ルーヴァン郊外にあるアーレンベルグ城(現在は大学が所有)の領主はオーストリア系でプロイセンの軍人だったし(注1)、ベルギー国王も祖先をたどればドイツ系である。ルーヴァンに限らず、ベルギーとドイツの関わりは深い。
 しかし、現在のベルギー人のドイツへの感情は、さほど良いとは言えない。個人的に敵視するようなことはないものの、

「私たちはオープンだけど、ドイツに関してだけは、ちょっと“しこり”のようなものがあるのよね」

と知人のベルギー人女性は話していた。

年季の入った時計

 
しこりを作ったのは、やはり2度にわたるドイツの侵攻である。
ベルギーは中立を掲げていたにも関わらず、第一次大戦でも第二次大戦でも占領される憂き目にあった。ルーヴァンでも多くの人が家を追い出され、残った人々も飢えと暴力に支配された。理由も聞かされず家から引きずり出されて銃殺された人も相当数に上った。第一次大戦でルーヴァンだけで248人の市民が死亡したとされる(リンク2)。当時のドイツ人将校は

「我々はこの町(ルーヴァン)を完全に破壊するつもりだ。ルーヴァンという町が、かつてここにあったことさえ分からなくなるほどに。(中略)人々はここにやってきてドイツを敬う心を学ぶだろう。ドイツに向かって武器を向けることを考え直すだろう」

と発言している。(41-42ページ、シヴェルブシュ)

 では、この将校の言うように、ドイツの破壊と暴力を前に、市民は「(抵抗を)考え直した」のか。

 答えはノーであり、イエスでもある。特に第二次世界大戦では占領が4年以上にも渡ったため、対応が分かれた。
 ユダヤの子供たちをスイスに逃がす活動をするなどナチへの地下で抵抗運動を行う人たちがいた一方で、諸手を上げてナチを歓迎する人たちもいた。特にフランダース地方をベルギーから独立させようとしていた民族主義政党VNVは積極的にナチに加担した。ベルギー人ながら占領軍のナチの親衛隊SSの一員としてドイツ軍に加わり、旧ソ連に従軍した党員さえいたほどだ。

アルゼンチンに今もあるナチ加担者のフランダース人村



 ベルギーは大きく分けると、フラマン語というオランダ語の方言を話すベルギー北部のフランダース(フラマン)地方と、フランス語を話す南部のワロン地方、両言語で首都のブリュッセルの3地域に分かれる。
 人口はフランダースが多いが、政治は長くフランス語圏が牛耳ってきた。それに反発して、北部フランダースには分離独立を望む勢力が根強く存在する。
 ナチが台頭してきたとき、こうした分離独立派は、ナチが掲げるアーリア人ナショナリズムに自分たちの独立の夢を重ねた。フランダース地方はゲルマン系(フランス語圏のワロンはラテン系。ブリュッセルはフランス語話者が多いが両言語地区である)のため、ナチが独立を支援してくれるのではないかと期待したのである。

 ナチ加担組は、終戦後、徹底して非難された(注2)。戦犯とされる人たちの一部は南米に逃れ、ペロンら民族主義者の庇護のもと、アルゼンチンに移住した。今でもバリローチェという湖畔の町には過去のナチ加担者とその家族らが住む地区がある(リンク4)。

 一方、ベルギー国内に残ったナチ加担者の多くは、国を裏切った者として排除され、なかなか就職できず、貧困を極めた人も少なくなかった。

この戦時の国民の分裂の記憶は、今もベルギーの政治に影を落としている。
 
現在、ベルギーでは、他の欧州諸国と同じく、右翼や極右政権が勢いを伸ばしている。筆頭となるのが、現在のベルギーの第一党である中道右派の新フラームス同盟(N-VA)と、徹底的な移民排除を掲げる極右政権であるフラームスベラング(VlaamsBelang)である。

この2政党の有力政治家や支持者に、祖父や曽祖父がナチに加担したVNV党(すでに存在しない)の党員だった人が含まれるのは、口には出さなくとも、地元の人なら知っている事実である。代表的な人物がNV-Aの党首バート・デウェーバー(Bart De Wever)で、彼の祖父はVNVの党員だった。N-VAはフランドルの独立を志向するナショナリスト政党で、多文化主義を非難し、移民政策の厳格化を掲げている。祖父の代からの生え抜きの右派だ。だが、第一党となってからNV-Aは極端な主張はひっこめ、今や中道右派とも称されるようになった。

一方、フラームスベランフ(VlaamsBelang)は極右政党である。フランドルの独立と移民排斥を訴えるEU懐疑派として、与党になって極端な主張ができなくなったN-VAに物足りなさを感じる右翼を取り込んで勢力を急速に伸ばしている。2006年にアントワープの繁華街で、移民排斥を叫んで少年がトルコ系とマリ人の乳母およびその乳母が連れていた白人の赤ちゃんを射殺した。事件は社会を震撼させたが、少年はフラームスベランフの有力議員の親族、かつ、祖父はナチ党員SSとして東部戦線でソビエト軍と戦った過去をもっていた(リンク1)ことも大きな話題になった。事件は極端な例で、決して一般化はできないし、事件は同党とは関係がない。また、フラームスベランフにしてもN-VAにしても、戦時のナチ加担政党とは違う組織だ。
だが、戦後70年もたって、当時と同じように外国人排斥を訴え、極右を支持している若者がいる事実に、問題の根深さを感じざるを得ない。
 

英雄がいないベルギー


 

ウィットローフ(シコン、もしくはアンティーブ)のグラタン。ハムでぐるりと巻かれたウィットローフがトロトロでクリーミー


 ベルギー国民はドイツと戦った歴史をもつにも関わらず、全国的に知られる対独戦争の英雄が存在しないのだそうだ。これは、今でも定期的にレジスタンスの闘士たちの記念行事を行うフランスとは大きく異なる。ゲント大学歴史学科の研究によると(リンク3)、これは先の戦争を「どう記憶しているか」の違いに理由があるという。

 つまり、フランス語圏のワロンにとって第二次大戦は「レジスタンスとしてナチと戦い勝利した」記憶だが、フラマン地域には、ワロンと同様にレジスタンスとして戦った人がいる一方で、ナチに加担して分離独立しようとした人たちにとっては「負けた」記憶なのだ。

 アルゼンチンで暮らす、かつてのナチ加担者の女性は、ベルギーのテレビ局のインタビューに際して、祖国に帰れないまま高齢を迎えた今でもナチへの加担への後悔ではなく、「(ドイツが)戦争で負けたのが残念」というような言い方をした。ドイツ側に立つ彼女にとって第二次世界大戦は「敗戦」だからだ。(リンク4)
 
同じ時期に同じ国にいて、同じ戦争で同じ敵に占領されたにも関わらず、「勝った」と思う人と「負けた」と思う人がいる。

この差は、いまだにフランス語圏とフラマン語圏の対立で、ぎくしゃくしているベルギーの政治的不安定さに地続きだ。(注3)

 当時のGambrinusのオーナーとドイツとの関わりの深さが本当のところはどうだったのかは分からない(重ねて言うが、戦後、買収されて現在のオーナーは当時とは全く関わりがない。ちなみに現在はドイツビールも扱っていない)。
 だが、期せずしてルーヴァンで唯一、ドイツに焼かれずにすみ、町の最古となったカフェは、こうした人の心の複雑さとベルギーという九州より小さな小国が歩んできた困難な道のりを今に伝えている。

<メモ>


Gambrinus:
伝統的なベルギー料理が楽しめるブラッセリ―。おすすめは、春先のホワイトアスパラのフランダース風ソース、シコン(アンティーブ)のグラタン、シェーブル(ヤギのチーズ)のサラダ、牛肉のシチュー、ホタテ貝のグラタンなど。中でも自家製アイスクリームは絶品。店内での食事のほかテラス席でベルギービールなどを楽しめる。予約したほうが無難。
Gambrinus
Grote Markt 13, Leuven, Belgium
電話:016 20 12 38
メール:info@gambrinusexploitatie.be
 
ルーヴァン市の歩き方:ブリュッセル中央駅から国鉄ICでリエージュ方面で約30分。駅からGambrinusのある市の中心部Grote Marktまでは徒歩で15分ほど。駅から広場に続くBondgenotenlaan(連合軍通り)は直線なので迷わないだろう。Grote Marktにあるタウンホール(市議会議事堂)は1400年代に建てられた壮麗なゴシック建築。Gambrinus前のシントピーターズ教会は世界遺産。途中、左手に見える大きな塔のある建物はルーヴァン大学図書館。第一次世界大戦でドイツにより放火された(当時は違う場所)ためアメリカなど連合軍がプロパガンダを兼ねて再建した。日本も再建に参与したが、第二次大戦でもドイツの焼き討ちにあった(怨恨とされる)。
 世界遺産は、十字軍ゆかりのヘギンホフ(大小2か所)、カリヨンのあるシントピーターズ教会の3か所。世界最大のビール会社アンハイザー・ブッシュ・インベブの本拠地であり、ルーヴァンではステラ・アルトワを製造している。風向きによっては駅周辺にある工場から、ビールの酵母が匂うこともある。
 ルーヴァンで楽しむ料理には典型的なベルギー料理のほか、ネパール人のコミュニティが大きいため、ネパール料理のモモや麺類を扱う店が他都市に比べて多い。90年代から始まったネパールの政治的混乱により、もともと住んでいたネパール人を頼って移民する人が増えたためだ。
 学生街のため、治安が比較的良く、若者で活気がある。英語が比較的よく通じる。 
 
参考リンク:
1.       Hans Van Themsche:https://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Van_Themsche
2.       Hidden Belgium:Gembrinushttps://www.brusselstimes.com/art-culture/451800/hidden-belgium-gambrinus
3.       Resisting resistance. WWII resistance movements as milieux de mémoire in post-war Belgium, 1945-present https://research.flw.ugent.be/en/projects/resisting-resistance-wwii-resistance-movements-milieux-de-m%C3%A9moire-post-war-belgium-1945
4.       Vrt Canvas:Bariloche
https://www.vrt.be/vrtmax/a-z/bariloche/
 
参考文献:
1.       ヴォルフガング・シヴェルブシュ、「図書館炎上 二つの世界大戦とルーヴァン大学図書館」、福本義憲訳、法政大学出版局、1992年
 
(注1)壁にBürgerliches Brauhaus München(ビュルゲリッチェス・ブラウハウス・ミュンヘン。Bürgerlichesは大手のLowenbrauの前身)とある。
(注2)アーレンベルク家はオーストリア系で、16世紀以来ネーデルランドを中心に居住していたものの、プロイセン軍の指揮官であり、プロイセン国民とみなされていた。そのため、第一次世界大戦後、フランスとベルギーにあるアーレンベルク家の膨大な財産と不動産は接収された。ベルギーで押収された不動産の中には、ヘフェルレーボス、メルダールウッド、プロスペルポルダー、ヘルトーギン・ヘドウィゲポルダーなどがある。ルーヴァン大学はアレンベルク城を買収した。
(注3)ベルギーは四国より大きく九州より小さい小国だが、公用語が3つあり、政府も3つ(オランダ語圏のフラマン、フランス語圏のワロン、両言語で首都のブリュッセル)という複雑な国である。オランダ語圏では独立を志向する勢力が根強く存在する。
 
 

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