終わりのことばかり考えていた私が、終わりに思いを馳せなくなった。
私は、始まりとともに終わりを考えてしまう少しめんどくさい生き物だ。楽しみにしているイベントがあって、あと何日!とカウントダウンしている時ですら、それと同時にそのイベントが終わるときや終わった後のことを考えている。イベントなら、ああ終わっちゃう。卒業なら、もうすぐこの生活も終わりだな。友人たちとの食事でさえ、いつかみんなでご飯を食べなくなってしまうかもしれない、と考えていた時期もあった。ここまで行くと我ながらなんだか考えすぎだと思って笑えてしまう。
でも、最近ふと気づいたことがある。物事の終わりを考える時間が減っているのだ。終わりそのものも少し減っているかもしれない。終わりが減るということは始まりも減っている。
学生時代には、もっと始まりと終わりが明確にあった。入学という大きな始まりがあって、進級という小さな終わりと始まりがあって、最後に卒業という大きな終わりがある。でも社会人になると、異動や昇任という小さな始まりや終わりがあっても、卒業ほどのインパクトがある終わりがない。転職は比較的大きな始まりと終わりなのかなとも感じるが、でも社会人という期間が終わらない(卒業しない)という意味においていえば、そこまで大きなものではない気もする。
学生の間、私たちは社会人という長い期間と比べて始まりと終わりを考えて(決められて)生活していたのかもしれない。なにせ社会に出た後は就職というとてつもなく大きい始まりがあって、その先には定年というこれまたとてつもなく大きな終わりがあるだけで、その間の小さな終わりや始まりは一律には決められていないし、あるのかないのかだって定かではない。私は異動や昇任、転職を小さな始まりや終わりと認識しているけれども、別にそれらをなんとも感じない人がいるかもしれないし、もっと違う出来事を始まりと終わりにカウントする人もいるかもしれない。学生のように一斉に始めて一斉に終わることがなくなっただけであって、意識すれば案外すぐそこにあるものなのかも。
こんなことを考えるきっかけになったのは私自身の生活の変化だ。去年の暮れに一人暮らしを始めて、4月には異動があった。この変化の波が押し寄せる前に今までの生活の終わりと新たな生活のはじまりを伴う変化について考える時間が増えたことは間違いない。コロナになって生活様式がガラッと変わった。7年勤めている職場と、いつかはしなければならない自立。20代も半ばになって、結婚や出産の話題も増えた。どんどん変わろうとする世界の中で、私がどうなりたいのか考える時間がたくさんあった。そういう時にタイミングよく車椅子でも住めそうなところが見つかって、あれよあれよと一人暮らしを始めていた。それが落ち着いたと思ったら今度は初めての異動が決まった。まるで見えない流れに流されるような、でも確かに選択している気持ちで時間が過ぎていった。
無理に変化しようとしなくてもよかったのかもしれない。今までの生活を終わらせなくたって別に何も変わらなかったかもしれない。変えることにだって気力と体力がいるし、このご時世生きているだけで気持ちが削られる(というのは変化が一通り落ち着いている今だから言えることではあるけれど)。それでも私が新しい生活を始める道を選んだのは、終わりが見えない生活に嫌気がさしていたからだと思う。終わりが見える生活となるとそれはそれで怖いけれど、なにも始まらない生活に飽きてしまった。何かが始まることや終わることは日々の刺激になる。私は平穏な生活を望んでいながら、その裏でいつも始まりを望んでいるのだ。疲れやすくめんどくさがりで怠惰な面も多くある私が、こんな風に考えていることは私自身とても驚くことだけど、分かった以上は好奇心の赴くままいろんなことを始めてみたい。
ところで私が自分のこういう性格に気付いたのは、コロナ禍になってからのことだ。
コロナ前の私は、週5のフルタイム出社をしながら月に1回はライブに行き、さらに遠距離の彼氏と泊りがけでデートをしたり友達とご飯を食べに行ったりしていた。たまの何もない休みは、散らかり放題の部屋を放置しやるべきこともやらずに1日寝てばかりで怠惰な人間だと思っていたけれど、今考えると元々の身体障害で体力が人よりも少ない私にとっては、コロナ前の生活は単純に動きすぎだっただけである。
だからコロナ禍が始まった当初、私はライブにいけないことや友達に会えない悲しさはあっても、生活に快適ささえ感じていた。ストレスを感じやすくなっていた職場にはあまり行かなくて済むようになったし、電車や商業施設の人混みも多少減って車椅子でも動きやすくなった。こういうことが積み重なっていくうち、私はこういうスローペースな生活が合っていたのだな、と思うようになった。
も、コロナ禍で飽きているステイホームを差し引いても家にいるのは好きになったし元のフル出社生活には戻りたくない。でも全てを合っていた、と表現するのは少し乱暴だなと今は感じている。私がやりたいと思っていた生活は、外に出て刺激を受け切り替えられる生活と、家などリラックスできる場所で自分をケアする時間の両方を使い分けられる生活であって、今のような仕事をしているんだか生活をしているんだかよくわからないものではない。コロナ前の生活に疲れ果ててはいたけれど、私にとって場所を変えるということはスイッチを切り替える作業だったのだ。
どちらがオンでどちらがオフということではなく、ライブに行ったり外を見て回ったりしてリフレッシュしてストレスフルな日常生活に戻ることだってあったし、逆に外の刺激に疲れ果てて家で寝ていたこともある。その時の気持ちや体調、周囲の環境に合わせて、気持ちを切り替える場所を選んでいた。今はコロナ前とは違い一人暮らしを始めたから、家をある程度心の安全基地として利用できるようになったけれど、だからといって全てがそこで解決するわけでもないのだ、というのはこのコロナ禍で外出自粛をしながら一人暮らしをして発見したことである。
コロナ前までの私は、それが悪いこととは言わないが忙しく動きすぎていて疲れ果てていたからスローペースが良いと思い込んでいたけれど、こんな風に外出自粛を求められていると、望む生活がただ単にスローペース、外出を減らしたいということではなかったのだな、と自分の考えの浅さにも気付いた。きっと私だけではなく、少なくない人がコロナ禍の始まりでそれぞれの生活の気づきを得たのではと考えているし、私自身ここに書いたこと以外でも気づいたことがたくさんあった。そのことや、たわいのない話をそろそろ友人たちや恋人と会って話がしたいけれど、そういうことができるのは、もう少し先になりそうだ。
今は外に出たい気持ちを抑えながら、コロナ禍の終わりと新たな生活の始まりを望んでいる。
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