答えは「自分の中」にしかない。 〜向き合うべきラスボスは自分!〜

POOLO7期の卒業にあたり、ノートを書いています!めぐです。
そういえば、8ヶ月前にPOOLOが始まった時の最初の課題にも、初心をノートに書き留めとくようにっていう課題があったなあ。
それもやらず、やっと今NOTEに登録して初ノートを書きます!
私らしい!そんな自分のも嫌いじゃない!直そうと思う気持ちがないわけじゃないけどね。

さて、長文になりそうだけど、今の気持ちとPOOLOで駆け抜けた日々を振り返ろうっと!!!
正確に言うと、
2023年11月〜自己理解ゼミ
2024年1月〜 世界一周ゼミ
2024年3月〜 POOLO7期
だから、この1年間のTABIPPOライフを振り返ってみる!


ちょうど1年前の2023年10月、校長に退職の意向を伝えた。
そこから1年間の自分の成長を振り返っていく。
1年後の未来の自分へのお手紙も書いちゃう。

気づけば中学生の頃から、海外プロジェクトに申し込みをしていた私。
大学生の時にはヒッチハイクで日本1周、教員の夏休みを利用して今まで30カ国を旅してきた。
いつからか思っていた、「地球人としての人生を歩みたい」「世界中の友達と楽しい時間を過ごしたい」というのが夢。

大学休学中にカンボジアの田舎で教育ボランティアをした。
私のことを大好きでいてくれる子たち。どうしても学校に行かせたかったあの子。
教員になってからも空を見るといつも「この空の向こうでカンボジアの子たちは笑顔でいるかな」そんなことばかり考えていた。

教員一年目。毎朝5時おき、帰宅は21時。保護者に怒られ、電話で泣いた。子供たちが音楽の授業で気持ちよく歌う姿が愛おしすぎて泣いた。
教員2年目の3月にコロナスタート。2年目といえど、新しい学校に移動して初めての先生と初めての子供達の出会いは、オンラインと分散登校。
やりがいMA Xと同時に忙しすぎて、肉体的にも精神的にも「世界」への夢は気づかないうちに心の奥底に追いやられていった。

2022年夏、青年海外協力隊に応募できるよう、校長に打診。
教員には、教員という職業を維持したまま2年間隊員として活動できる制度があるが、それには校長の推薦が必須になる。
校長からの答えは「今は推薦できない。もっと今の良い仕事環境の中で力をつけてほしい。」

もともと先生として働いて3年経ったら、この制度で青年海外協力隊に申し込むというのが、新卒として教員になるときの自分との約束だった。
校長は、何十年も経験を積んで、現場で即戦力になれる人に育てたいと思ってくれていたみたい。
何十年後も自分が同じ感情でいるか、自分で意思決定できる環境にいるかなんてわからない。
この時点で教員4年目。推薦できない!?どうゆうこと!?...すっと飲み込めるほど、簡単に諦められる夢じゃなかった。

翌年、校長が代わり、2回目の青年海外協力隊への挑戦。
結論は、やはり推薦不可だった。「今の酒井さんが学校には必要だ。一緒にあと1年だけでも働いてほしい」と。
実は退職だけじゃなくて、むしろそれよりも大きかったテーマが「結婚」

7年間付き合って、最後は1年間同棲していたパートナーと結婚するか。日本に住むかその人の国に住むか。結婚しないで世界旅に出るのか。
退職を決める半年前からずっと悩み続け、結局出した結論は「結婚しない」(これ語り出したらこれだけで10000字いける笑)
だから、今ここにいる。違う結論に辿り着いていたら、きっとPOOLOにも出会っていないと思う。

これは、とてもとてもきつい決断だった。そのパートナーは今でも大親友。
世間の人からは理解してもらえないだろうけど、一番尊敬していて、一番幸せになって欲しくて、死ぬ瞬間に隣にいてほしい人。
好きだけじゃうまくいかないこともある。「愛する」って何かを学ばせてくれた人。

まあ、それはいいとして本題に戻ると!!!!

退職を校長に伝えると、それはそれは「思いとどまってほしい」の全力攻撃。
そりゃそうだ。仕事して5年目って少し力がついてきて勢いがめちゃくちゃある時期。
しかもちょうど5年生の担任で、そのまま持ち上がりで卒業させるはずだった年。
特別活動の2番手で、そのままトップになるはずの年だった(一般的にいう係長?課長?)

でも私の中では、「いや推薦してくれなかったのあなたですやん」って気持ちと、5年温めてきた夢をやっと目の前にはっきりと形が見えてきたワクワクで、もうすでに心は前に進んでいた。
とはいえ、いざ本当に海外行けるとなると「え、待ってなんで私海外に行きたいん!?」ってなり始めて。笑
11月から「自己理解ゼミ」というPOOLOのゼミの1つに入り、がっくん、とし、まりなどと出会う。
自己理解ゼミで学んだことは今も大きな心の指針になっている。「自分が本当にやりたいwant to は何か」「自分に向き合うことは時間はかかるけどコツコツと」

自己理解ゼミが終わった12月。なんとなく人生のラスボスは、まわりの人じゃなくて「自分」なんだっていうのがわかった、自己理解の入り口に入った感覚があったけれど。
じゃあ今後どうしていこう!せっかく入り口立ったのに、ここからがおもろいんやん!なんかないんか!
と思って、みんなが進めてくれて、気になったのがPOOLO。
それも入るのに勇気がいって(お金も大きいしね!笑)、1月には世界一周ゼミにも入ってた!

POOLOが始まった3月は、教員として一番忙しい成績の時期、プラス、私が抜けることで開くはずじゃなかった穴がぽつぽつあったから、それを埋める作業でおおおおおおおお忙し。
LITERALLY心を亡くすぐらい忙しかった。そんな時期のスタート。
今でも忘れない、忘れたくない、5年生の子供達への思いも書いておきたい。

学校の中で一番元気で(いろんな意味で)、校長から「酒井さんのパワーと明るさはあの子たちとマッチすると思う!うまくやってほしい」と謎の期待を込めてもらった人事。
2個上の兄ちゃん主任も、学年主任は初で、私だって一回しか卒業生出したことない。その組み合わせで、立て直し学年持たせる!?っていう人事。
でも校長の言うとおりで、パワーマックスで、本当に毎日生活指導しかしていない、どんなに「愛」を伝えても飽きない子供達で、大変だけど毎日賑やかで楽しかった。

忘れちゃいけない、終業式の日の子供達の涙。
5から6年生に上がるときに担任が持ち上がりなのは、子供達や保護者からしたら結構当たり前のことで、誰も疑ってなかったと思う。

最初は他の小学校に移動する先生の移動たちの発表。
子供達にとって自分の授業をしてくれる先生が来年誰なのかは大大大問題だから、音楽の先生はもうずっといるからそろそろ変わっちゃうかな、とか大体わかってるもん。
そして最後に「先生を辞めてしまう人を伝えます」といって呼ばれる「酒井」の名前。

鮮明に覚えてる。体育館の後方に横にずらっと体育座りする70人の5年生たち。
私の名前が呼ばれた瞬間悲鳴みたいな えっ・・・え! と言いながらみんな私の顔を見る。
兄ちゃん主任がずっと隣にいてくれた。私の心はお別れが悲しいというよりも、申し訳ないごめんねの気持ちでいっぱいだった。

1人、2人と子供が泣き始めて、その嗚咽する声が他の子にも広がって、終業式の話が続くシーンとした体育館の中に泣き声ばかりが響く状況。
人目を気にせず大声で泣く女の子、堪えるように目を真っ赤にして涙を溜める男の子たち。
その子たちのそばで、抱きしめて背中をさすることしかできなかったし、本当にこの決断でよかったのか、この決断をしている自分を好きでいられるか、ちょっと自信がなくなった。

でも、子供たちは本当に強い。教室に帰るとみんなサイン大会で楽しそう。笑 そんな紙切れにサインもらったって、夜にはもう無くすやろって男の子も可愛い笑
酒井先生がこれから、どこでどんなことをやるのか。夢は諦めたときに夢じゃなくなる、諦めなければ形になる、ということを伝えた、最後のホームルーム。
最後に輪になって、みんなで作った5−2の歌を歌って、手を繋いで涙を流してさようなら。

最後の通知表を渡すときに、不登校気味で一番心配して目をかけてきた女の子から一言がすごく嬉しかった。
「サカティがいなくなると聞いた瞬間は、もう6年生になったら学校来られないと思った。でも先生が海外でどんなことをするのか動画見せてもらったり、困っている人たちを助けるって言うのを聞いたら、サカティにすごくあっていると思うし、世界の子供達が嬉しくなると思う。先生じゃなくなっちゃうのは嫌だけど、サカティがやりたいと思うことを本当にやろうって思ったのはすごくいいと思う。だから、応援するし私も頑張る。」
と言ってくれた。

25日に終業式をして、私が退職する31日までの春休みの間、毎日子供達が会いに来てくれた。
手紙を持って。手作りプレゼントを持って。その女の子はママと一緒に大きな花束を持って。
卒業させた子供達も会いにきてくれた。

こんなに愛してもらっていたことに、正直気づいていなかった。
今後先生に戻るかどうかは未定。
でも、こんなに愛を受け取ってくれる相手がいて、愛を伝えてくれる人たちがいて、
私は新卒からの5年間を「さかてぃ」として過ごしたことを誇りに思うし、出会った子たちには心の底から幸せになってほしいって願う。

おっと!!!!また話が前に進んでいないことに気づいたから、コマを進めます

3月から始まったPOOLO。

ちょっと疲れたので、この後は第2部に続く!

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