ピノキオキャラクターデザインの生みの親|ミルト・カールの軌跡
ディズニーアニメーター、ナイン・オールド・メンのミルト・カールが担当したキャラクターとシーンを紹介します。
・「白雪姫」の王子様
・ピノキオ
・「南部の唄」のブレア・ラビット、ブレア・フォックス、ブレア・ベア
・「ラテン・アメリカの旅」の「ドナルドのアンデス旅行」のドナルド・ダック
・「バンビ」のとんすけが父親の退屈な演説を朗読するシーン
・「シンデレラ」の王子と王様と公爵
・「ピーター・パン」のピーター・パン
・「眠れる森の美女」のフィリップ王子
・「ジャングル・ブック」のシア・カーン
・「くまのプーさん」のティガー
・「ビアンカの大冒険」のメデューサー
ミルト・カールは王子や男性など力強いキャラクターを主に担当していました。
またミルトは製図技術が素晴らしいアニメーターでした。
たくさんの人間キャラクターが登場するシーンを描き、「シンデレラ」以降の20年間は、彼がメインキャラクターの最終デザインもしていました。
一番有名なのはピノキオのキャラクターデザインです。
最初のピノキオのキャラクターデザインはフレッド・ムーアが担当していて、生意気で奇妙な見た目でした。
そのデザインをみたミルトは「なぜピノキオの外見を可愛い男の子にしないんだ」と監督に意見を言い、デザインを再考してテストアニメーションを制作したのです。
最終的にミルトが描いたピノキオにウォルトは感銘して、ピノキオは人間の男の子に近いボーイッシュな見た目になりました。
ディズニーアニメーターになるまで
オークランド・ポスト・エンクワイアラー紙の美術部門だった
ミルト・アーウィン・カールは1909年3月11日サンフランシスコで生まれました。
ミルトはモーターのスケッチを楽しんでサンフランシスコのホーレス・マン・スクールに通っていました。
その後フリーモント高校に通っていましたが、家計を助けるため学校を辞め自転車で処方箋を配達するバイトをしていました。
ミルトは後に彫刻会社で働き、1925年にオークランド・ポスト・エンクワイアラー紙(注:後のオークランド・トリビューン紙。2016年4月に他3社と共にイーストベイ・タイムズとして集約)の美術部門に就職します。
それから25年間、貼り付け、レイアウト、写真、レタッチ、スポット漫画の仕事をしていました。
ハミルトン・ラスケとの出会い
ミルトはエンクワイアラー紙に在籍中、後のディズニーアニメーション監督のハミルトン・ラスケと同僚でした。
エンクワイアラー紙で3年間勤務した後、サンフランシスコブレティン紙で仕事をオファーされますが、翌年1929年株式市場は暴落され、会報は売却され、ミルトは職を失ってしまいます。
職を失ったミルトは友人と劇場広告の仕事に就きますがすぐに解雇されてしまいます。
ミルトはフリーランスになり、ペントハウスのスタジオをアーティストと共有し、アートディレクターの仕事のアシスタントをするようになります。
アートディレクターの影響を受け、ミルトはサンフランシスコの美術学校に通うようになります。
1923年年末、24歳のミルトにとってのイラストの仕事がなくなりはじめます。
元新聞会社の同僚ハミルトン・ラスケからディズニーで定職に就くことを提案され、1934年6月25日、ミルトはディズニーで働き始めました。
■引用元
■参考文献
・Walt Disney's Nine Old Men and the Art of Animation p.124- p.164
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