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学校の校舎の歴史と未来

学校の校舎は、なぜコンクリート造りなんだろう?なぜ、日本全国どこへ行っても似たり寄ったりの形なんだろう?
今回は、そんな疑問を深掘り!
学校の校舎の歴史と今、そして未来について!

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時は、江戸時代。
この頃の子供たちの主な学びの場は、寺子屋だった。
寺子屋といっても寺だけでなく、他にも神社や民家などを借りて、学校として使っていたそうな。
一般庶民が読み書きそろばんを学べる場所として、寺子屋は全国各地に広まり、幕末には15000以上あったらしい。

その後明治時代になり、西洋文化が日本に一気に押し寄せてきた。すると、一部で洋風の建築を真似た学校が作られるようになった。
1873年(明治6年)に、今の長野県に建てられた旧開智学校は、現存する最古級の和洋が混在する学校で、でも造りは木造だ。今では国宝になっている。

旧開智学校(長野県公式観光サイトより)

1872年(明治5年)には学制が発布され、日本の教育制度がどんどん整って行った。この学制によって、満6歳になった男女はみんな、小学校へ通うことが義務となった。
この頃の就学率は今とは比べ物にならないほど低く、男子が39.9%、女子が15.1%、平均28.1%という有り様だったけど、学制によってどんどん上がっていった。

しかしその頃も、学びの場の主流は寺子屋式の学校だった。
この頃の小学校のうち、実に7割以上は寺や民家を借りたもので、少なくとも建物に関しては、江戸時代と大差なかった。

しかしその後1891年(明治24年)に、小学校設備準則といった法律がつくられ、学校建築の造りがどんどん整えられていった。
同時に、学校に通う子供が増え、学校数が足りなくなり、全国に次々と学校が作られるようになった。
それまでバラバラの造りだったものが、北側廊下の南側教室などと統一されるようになった。
他にも、湿度の高い日本の気候や子供たちの目の健康も考えて、校舎の造りが議論され、統一されていった。

それから時はたち、大正に入って転機が起きた。
大正末期から昭和初期にかけて、震災や台風が相次いで起きたのだ。
関東大震災も、この頃だった(1923年、大正12年)。

明治期に作られた学校は、古くなっていたこともあって、木造のものは燃え、レンガ造りのものは崩れ落ちてしまった。
その中で、コンクリート造りのものが耐震と耐火という点においてとても優秀だと言うことがわかり、その後は鉄筋コンクリート造りの学校が次々と作られるようになっていった。

こうして、日本の学校の校舎というものは、開国以後の教育改革や数多の災害をきっかけとして、急速にその造りが統一されることとなった。

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ここまでが校舎の歴史。

私が面白いと思ったのは、学校の校舎が今のようになっているのは、日本の気候や地域的特性が大きく影響しているということ。
日本は地震大国なので、耐震性・耐火性はとつも重要だし、湿度も高いので空気がよく流れるほうがいい。
その点において、鉄筋コンクリートは優れていた。

ヨーロッパであれば、地震がとても少ないから、レンガ造りの校舎でもいいかもしれない。
でも日本は地震が多いから、それではダメだった。

公教育を担う公立小学校の校舎として、鉄筋コンクリートで日本全国似たような造りというのは、合理的なものなのだ。

しかし、今ある全国各地の校舎は、古いものも多いのではないだろうか?
鉄筋コンクリート造りの校舎は、建て替えまでの平均年数が約42年らしい。
一方、全国の小中学校の校舎の約半数は、築30年以上になっている。

ということは、少子化で学校を閉鎖している地域も多いらしいけど、それ以外の学校は新たに建て直さなきゃいけないところも多いのではないだろうか。

今後の日本の校舎は、災害や気候を考えると、今と大きく変わることはないのかなぁとは思う。
でも、オルタナティブスクールなどがたくさん出てきて、民家を学校にしたり、子供たちの手でリフォームしたりしているところもある。
何だか昔の寺子屋みたいで、面白いと思う。

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