ホンモノに触れる、ということ
石絵を始めた、高校生の頃。
最初は石に描くより、まだ健在だった父親が切って作ってくれた、小さな輪切りの木の断面に鳥を描くのがマイブームで、ポケットサイズの野鳥図鑑を見ては、カワセミやらサンコウチョウやらメジロを描いてはキーホルダーに仕上げていたのだが。
当時母親の知り合いの知り合いみたいな繋がりで作品を見ていただける機会があり、
割りとどや顔で見ていただいた(若いな(笑))、
当時のクラフトフェア松本にも出品されていたストーンペイント作家の方からの、言葉。
「これ、自分で描いたの?」
「はい!(割りとどや顔)」
「うーん、上手いね、大したもんだ。」
「(どや顔)」
「ただ」
「?」
「本物を、観るといいよ。」
そう、私の描いていたのは、野鳥図鑑という「写真」から。
ファインダーを通した色味というのは、撮し方でどんな色にでもなってしまう。
その感覚をまだ理解しきれていなかった私には、結構ぐさりとくる言葉だった。
写真で綺麗な原色のようでも、割りとくすんでいたりする。
本物に触れること。
当たり前で基本であることだけれど、ついつい、忘れてしまいがちなことである。
例えば今製作途中のおはぎも、おはぎというものをしらなかった訳ではないし、写真で見るだけでもできないわけではない。
でも、その餡のぽってり感、舌へのざらつき、小豆の艶、
食して感じることで、それに近づくための表現ができる。
カブトムシも然り、揚羽蝶の燐粉感も然り。
曲線美の象徴とされる裸婦を描画するとき、その腰の括れや滑らかな肌と乳房の丸み、切な気な鎖骨の溝にうなじの危うさ、全てを表現したいと願う情熱の向こうには、鉛筆を持ちながらギンギンに勃起するほどの、エロティシズムがなければ表現しきれない。
表現者として被写体を描画や彫刻としてうつそうと思うとき、裸婦のみならず、被写体に対する限りないエロティシズムがあるのである。
ホンモノに触れるからこその、リアリティの実現。
お陰でヘレナモルフォは、未だ片想いのまま表現しきれていない。
以来今でも、できる限り「本物を見る」という言葉は、当たり前だろが!と言われるかもしれないが、
私の座右の銘になっている。
ここ最近は暇さえあれば熱帯魚の水槽ばかり見つめているので、おかしな奴だと思われているだろうな。
ホンモノへの限りなき追及
限界まで表現できる、表現者になりたい。