愛について考えてみる
『愛』
と聞いたときに人が示す反応は様々です。
恋人を思い浮かべる人
家族を思い浮かべる人
温かい記憶を思い出す人
辛い記憶を思い出す人
愛がすべてだと思っている人
愛なんて綺麗ごとだと思っている人
この『愛』という言葉は、その響き一つだけで、人々に様々な情念を抱かせます。
『愛』とは、その言葉の持つ意味を超えて、非常に大きく、広く、そして深い意味を持っているのです。
わたしは以前、スピリチュアルでいうところの『愛』とはポジティブなものだと思っていました。
神の愛
大いなる愛
宇宙の愛
これらはとても壮大で、わたし達人間の言葉では到底理解の及ばない概念であることは間違いありません。
しかし、その『愛』は人間の視点からすれば、全てがポジティブなものではないのです。
宇宙や神からすれば、
優しさも愛であり、厳しさも愛
労りも愛であり、痛みも愛
喜びも愛であり、悲しみも愛
与えることも愛であり、奪うことも愛
何かを得ることも愛であり、何かを失うことも愛
そして、
善も悪も、光も闇も愛なのです。
スピリチュアルでいうところの『すべてが愛です』という言葉に違和感がある場合は、その『愛』という言葉が指す概念に対する認識が甘いのかもしれません。
ここで言われる『愛』とは、自身を甘やかすものだけを指しているのではありません。
『愛』とは、すべてのこと。
すべてとは、陰も陽も、光も闇も、善も悪も表裏一体となっているものごとすべてのことです。
そして、この地球は二極性の星なので、ポジティブもネガティブも単独で存在することはできません。
常に、表があれば裏があり、相反する二つの物事が対になって存在しているのです。
つまり、言い換えるならば、わたし達が見ている物事には、少なくとも相反する側面が二つ以上持ち合わさって成り立っているということです。
例えば、もっとわかりやすくするために、
太陽について考えてみましょう。
太陽はその光で作物を育み、わたし達に恵みを与えてくれます。
しかし一方で、太陽はその熱によって多くの人の命を奪うこともしてきました。
同じ太陽の光でも、命を育むこともすれば、奪うこともする。
これが、地球に生きる上でわたし達が経験する二極性の世界です。
しかし、そのことでわたし達は太陽を善とも悪とも判断することはないと思います。
それは、わたし達が太陽がその両方の側面を持っていること知っているからです。
『ただそこにあるから共存する』
これがわたし達の太陽に対する最も適切な認識かもしれません。
そして、この『ただそこにある』という状態
それこそが『愛』なのです。
仏教では『空』と表現されるかもしれません。
人は、自分にとって都合のいいことばかりを『愛』だと捉えてしまうことがありますが、すべての物事がこの太陽のように対になる性質を持ち合わせているとしたら?
すべての物事が、太陽のように『ただそこにあるだけ』『ただ起こっているだけ』だとしたら?
問題になってくるのは、わたし達の『心』です。
起こること、身に降りかかることすべてが、ただ淡々と自然の流れに沿って起こっているとすれば、その物事の『いい面』を見るのか『悪い面』を見るのか、もしくは『両方』見るのかは、見る人の自由ということになります。
それは、太陽の光を浴びて、『作物を育ててくれてありがとう』と思うか、『暑くて鬱陶しい』と思うかの違いと何ら変わりはありません。
つまり、『愛』とは、太陽のようにただそこにあること。
その愛の善し悪しをジャッジするのはわたし達人間であるということです。
確かに、巷のスピリチュアルで
『すべてが愛ですよ』
と言われているのを聞くと、安っぽく思えるかもしれません。
その意味もよく理解せずに『愛』を唱えている人もいます。
『愛』をポジティブなものだと信じたまま、『すべてが愛』と思おうとするととても苦しくなります。
なぜなら、心が『苦しい』と言っているのに、思考では『愛だから…』と自分に言い聞かせようとしているのですから。
『愛』がポジティブなものだと信じているがために、『なにが愛だ!!』と拒否反応を示す人もいます。
しかし、愛とは、ポジティブでもなく、ネガティブでもないもの。
愛とは中庸あり、中立なのです。
ただただそこにあるもの。
そこからわたし達が何を感じ、何を学ぶかが大切なのです。
わたしが最初に記したように、
『愛』と聞いて、人はいろんな思いを抱きます。
でもそのどれも正解であり、そのどれも『愛』なのです。
わたし達が抱く感情さえも、すべてが『愛』
いい感情も嫌な感情も、すべて『自分への愛』ゆえに湧いてくるものだからです。
その感情が湧いてくるということは、あなたの心が『あなた自身も、そこにいるだけで愛なんだよ』と教えてくれているのかもしれません。