心が折れそうなとき
人から批判されることもある、
仕事がうまくいかないこともある。
病気になっていることがわかる、
愛する人に死が訪れる。
生きていると楽しい事ばかりではなく、
試練に遭遇することは当然のことなのだろう。
人生は良い事ばかりではない。
誰もに同じように辛い事がある。
みんな辛さを乗り越えて生きている。
心が折れる
「心が折れちゃいそう」とかつい口にしたことありませんか。
絶望的、
どうすればいいのかわからない、
できないのではないかという不安。
辛い気持ちになっている時、自分と周りが断絶してしまっていて、自分が孤立しているように感じる。
人の会話もうまく入ってこない、
新しいアイディアも出てこない、
何をすればいいのかわからない、
自分にはできないという想念が生まれる。
自分という存在を消し去ってしまいたいとも感じる。
「心が折れてしまった」と、また呟くことがある。
「心が折れる」ということは、ありえるのでしょうか。
落ち込んでいるとき、
自分が傷ついたと感じているとき、
なんとなく使ってしまっている表現だと思う。
しかし辛い状況の中でも、まず
「心は折れないもの」と断定してみましょう。
口癖になりがちな、「心が折れそう」を使うのをやめた。
そして、「心は折れないもの」と言い切ってしまうことにした。
心理学のウイリアム・ジェームス教授は、「私はもうすべてを出し切っている」と自分で判断しているとき、たいていの場合は、本来の力の25%しか出し切っていないと著している。
絶望感、もうだめだという感情は実際は感情ではなく思考です。
「だめだ」という思考が自分に本来備わっている可能性を遮断してしまっていることになっているようです。
デール・カーネギーさんの著書「悪魔を出し抜け」には、心が折れそうな遭遇をいかに乗り越えるかの知恵があります。
あなたは信じる心に身をゆだねるか。
あるいは恐れる心の言いなりになるか。
ーデール・カーネギー著「悪魔を出し抜け」
心が折れるは恐れる心の声だと思います。
そして、信じる心は私たちの思考だと思います。
私たちには自由意志が与えられています。どのように考えるも、想像するのも私たちの自由です。また、どの程度この自由意志を私たち自信が制御しているのかも興味深いところだと思っています。
自己の運命をいかに決定するかは、私たちのこの自由意志のあり方次第ともいえると思いませんか。
私たちの自由意志の方向性を決めるのも私たち次第ということになります。
私たちに備えられている画期的な機能は、「思考」「言葉」「行動」です。AIも到達できていない人間の最高の機能です。
明るい気持ちでいること、
たくさん感謝すること、
人間は社会的な生き物であり孤立していると幸福度を感じにくいので、人との関係をよくする。
心にいる小悪魔のささやきには耳を貸さない。
小悪魔は見た、聞いただのの蓄積された無責任な意見を述べているだけで、私たちにとって聞く価値はたぶんないと思います。
私たちの行動の約97%は潜在意識によってなされていると言われています。私たちの顕在意識はほんの3%。私たちの思考が無責任な潜在意識に侵されるのはおかしなことだと思います。
明るい心でいること
自分を信じること
感謝すること
人の幸せを願ってあげられる優しい心でいることが
自分を一番幸せにしてくれる方法だと思います。