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見えない靴を履いてる意識
昔、地元でも割と大きい大学病院で
オペ室の看護師をしていた頃。
手術の前に必要な処置として
膀胱留置カテーテルをいれる手技があった
いわゆる、おしっこの管。
術後トイレに行けなかったり、麻酔の範囲によっては尿意の感覚が薄れてしまうこともあるために一時的にいれるものです。
オペ室に勤務していたら
ほぼ必須になる、この技術。
3年も勤めていたし、
仕事は出来ないほうだったけど
これだけは相当の数もこなしてきたし自信があった。
看護師4年目の年に転職し、
地域の小さな病院に就職した。
その技術が必要な場面に立ち会った時、
私できます!と手を挙げて担当した
結論、
そこで私はかなり手こずることになった。
理由はひとつ。
前まで勤めていた大学病院では最新型のひとまとめにされたセットを採用していた。もう全て必要物品がまとまって簡易的に誰でも使いやすくなっているもの。
ただ地域の小さな病院に
最新型のセットなんか当然なく、昔ながらの物品。
そういえば
🧑昔はこんな風に入れてたのよ〜今は楽になったわよ〜
と昔、先輩が話していたような💭💭
そんなことを考えながら
教科書で習った記憶をたどり
何とか必死になりながら手技を終えて
患者の元を離れた。
「できるってなんだろう」
現代はなにをもって
【できる】というのでしょうか
確かに出来てるんです。
最新の、あれこれ便利になった物品を駆使して技術としては完成している。
ただその便利なものがないとできない。
これは果たして、【できている】というのだろうか。
確かに【できている】には変わりないけれど
それはあくまで
※条件付き※の【できている】に過ぎない
あれから数年経って
看護師を離れて
美容業界やコンテストの世界、
資格ビジネスなど、
いろんなものを見てきて
𓏸𓏸に出れます!や△△になれます!
という見出しで昨今は
プロの集団やその道に精通したスペシャリストが
サポートする、コンサルするなどの
ビジネスが横行している
その結果、その𓏸𓏸に出れたり、
△△になることを叶えた人も沢山いる。
それも確かにその人の実力であり
素晴らしい結果としてカウントするのは構わない。
ただ、、、
自分が想像出来ないほどの人の助けを借りて
見えない靴を沢山履かせてもらい
自分に見えない道を
あなたが知らない人が
あなたのために作ってくれていて
あなたが得た結果はそれらの賜物であって
自分1人だけのものではないことは
知っておかなければならない
私が膀胱留置カテーテルの技術を習得できていたのも、
時代の産物のおかげで
それを与えてくれた環境があり、
教育体制が整っていたからであって
決して【できていた】わけじゃない。
特定の条件が揃えば、できていた。
個人事業主だろうが
会社員だろうが
家庭のことであろうが同じで
成果を成し遂げたのは自分だけのものではない
こんだけの成果あげました
いくらの売上あげましたってセールスマンの結果も
会社の名前があったからで
こんなチャレンジして成功できましたって結果も
誰かがずっとサポートしてくれたからであって
それをわすれてはいけない
みんな見えない靴をはいている
見えない靴を履いて出せた結果も
もちろん大事。
時代が進むにつれて
憧れや夢は前より近づいたんだろう
情報がとり入れやすくなったが故に
プロの手を借りやすくなった
憧れや夢のハードルが下がった、
価値が低くなった、とも言うのかもしれない
でもそれも悪いことではなくて
その結果も大事にすればいいとはおもう
ただ、見えない靴を履かせてくれた
全ての人や物に感謝をし続けていく
その感謝を言葉や行動で返す
そして
見えない靴を脱いでみた自分そのもので
どれほど戦えるのかは知っていた方がいいとおもう
見えない靴を無視していると
いつかすり減って無くなってしまう
自分の実力と結果が決してイコールでは無くなった現代だからこそ、その差は認識していた方がいい
常に見えない靴を履かせてもらってる
意識しているだけで
もっとまわりに感謝できるようになる
そうなれば
見えない靴は
見えない道にも見えない杖にも変化して
どんどん数が増えていく
もっと見えない景色を見せに連れて行ってくれる