医療的ケア児の親が働く時越えるべき壁とわたしの未来へのねがい
働けるかもしれない
生まれた時からずーっと心配ばっかりさせてくれた娘が、かつてないほどに元気に学校に休まずに通いはじめたのは小学校3年生の時だった。
その年の秋、医療的ケア児の受け入れ可能な放課後等デイサービスが市内に初めてできて、娘も通いはじめた。
養護学校に通う娘は医療的ケアが必要なため看護師配置のないスクールバスには乗れず、毎日朝9時半の登校時と15時過ぎの下校時の車での送迎は私の仕事だ。
デイにお世話になり始めてからは、それを週に3回、帰りはデイのスタッフさんが担ってくれ、夕方まで楽しい時間を過ごしたあと家まで送り届けてもらえるようになった。
いくら年を重ねても自力で歩いて学校に行ったり、寄り道してなかなか帰ってこなかったり、友達のところに勝手に遊びに行ったりしないこどもの親である私にとっては、家で待っているだけでこどもが帰ってくるなんて、ものすごいこと、もはや事件。
体調も環境も整い始め、風向きが完全にこっちを向いたように感じた。今なら限られた時間少しなら働けるかもしれない、と考えるようになった。
娘が4年生になる4月、運よく週一回ボイストレーナーの仕事が決まった。病院受診やリハビリ通院などの予定も入りにくい曜日に、まずは1時間だけからスタートした。そうやってうまくいくようなら少しずつ時間を増やして行こう、そう思った矢先の5月、娘がリハビリ中に大腿骨を骨折した。
特に何をしたということもなく、自力で座位をとる練習をしていたところ、自分の力と体重で折れてしまった。肢体不自由児の骨はとても細く脆く、寝返り等の介助などで折れてしまうこともあることは知ってはいたけれど、まさか自分の娘の骨が、座っていただけで折れるとは思わなかった。娘の骨の折れる大きな音は今も忘れられない。
そのまま即入院。
いつものかかりつけの病院は完全看護で付き添い不要なのだが、このときは動かすのは危険だということでリハビリで通っている別の病院にそのまま入院したため私の付き添いが必要だった。1か月病院に泊まり込むことになり仕事は休まざるを得なかった。始めたばかりの仕事、電話でひたすら平謝りした。
ベッド上で、折れた足を牽引されながら10歳の誕生日を迎えた。
骨折してから1ヶ月後ギプスをつけた状態で退院し、更にその2週間後ようやくギプスが取れて、やっといつもの生活が戻り始めた頃、季節はもう夏になっていた。仕事にもようやく復帰できた。
その頃、娘の就寝中の呼吸に異変が現れ始めた。
夜中に突然閉塞音と共に息がうまくできずにもがき苦しむようになり、その度に私は飛び起きて娘の体を少し起こしてやったり、息の吸いやすい体位を探してやらないといけなくなった。
秋にはその頻度がどんどん増え、かかりつけの病院に入院することになった。調べると上気道のちょうど鼻の奥から喉元のあたりが、横向きになるとへしゃげてしまう軽度の軟化症が発覚し、それにより閉塞性の無呼吸を起こしていることがわかった。経鼻エアウェイという、空気の通り道を確保する管を就寝前に鼻から入れることで症状は落ち着き、この時はすぐに退院することができた。
と思っていたら冬、年が明けた頃娘の呼吸状態は更に悪化し、また入院することになった。呼吸状態の悪化に伴い娘の全身状態はどんどん悪くなっていき、排泄機能が低下し、心拍数が保てなくなり、ほとんど起きていられなくなっていった。
更に詳しく検査を進めていくと、気道の状態による閉塞性の無呼吸と併せてこれまでになかったはずの中枢性無呼吸がみつかり、気管切開と声門閉鎖術という手術が決まった頃には、もう春になっていた。
手術は6月。遠方の病院へ転院し、そこでの入院は24時間私の付き添い入院が必要だった。
術後は新たに必要な医療的ケアも増える。生活が、娘の体調がどう変わるかこの時点ではわからないことが多かった。
ああもう無理だ。
仕事を始めて一年、私は仕事をやめた。
やっぱり働けない、と手放したもの
結果として、手術したことで娘はとても元気になった。術前に悪化していた全身機能の不調は全て改善された。排泄も整い、体温が維持できるようになり、心臓はちゃんと動くようになり、日中ちゃんと起きていられるようになった。
半年の入院と手術を経てやっと娘は家に帰ってきた。
それから、それまでの人生の中で一番元気な1年間を過ごし、元気に毎日学校やデイへ通った娘だったが、その後また体調に新たな問題が出てきて、その問題は根本解決は難しいため日々の不調と付き合い続けて今に至る。
14歳になった今娘の体調維持に割く時間も手間も格段に増えた。登校がままならない日も多くある。
正直なところ、娘が幼い頃は成長と共に強くなっていく部分が多くあるのではないか、と楽観視し期待していた。娘の場合はどうやらそうではなく、年と共によくない変化や新たな問題にも直面している。
娘と生きていくことはそういうことに向き合い続けることで、それは娘のせいではないし、誰のせいでもない。
そのためにできないことや手放さなければならないことはこれまでにもあったし、きっとこれからもある。仕事も、そのひとつだったと思っている。仕方のないことで、それに向き合い続ける覚悟はある。
だけどもし手放さずにいられる手立てがあるなら、手を差し伸べてもらえるのなら。
医療的ケア児の親の就労の越えるべき壁
地域差や個人差が大きいが、我が家のケースを軸に具体的に書き出してみる。
①通学に親の送迎が必要で始業時間は遅く9時半登校で親が学校を離れられるのは10時ごろと遅く、15時過ぎ下校、確保できる時間が短い。
(地域によっては登校中親の付き添いや別室待機の必要なケースも)
②週に何回か受診やリハビリでの通院が必要
③子どもの体調が不安定で通学通所が不安定。行った後急な体調不良でお迎え要請、急な入院などがある。
④福祉サービスの利用申し込みは前月、確定は前月の後半。断られることもあり先の予定が確約できない。
⑤通所系サービスや居宅サービスで時間を確保しようにもどこも一杯で利用ができないことも多い。(医療的ケア可の事業所はそもそも限られる)
などが挙げられる。
まとまった時間が確保できず決まった日や時間を必ず空けておくことが困難…これらを踏まえてできることは、選べることは、ものすごく限られてくる。
私の場合は不定期の音楽活動での僅かばかりの臨時収入と、ブログ運営収入、そしてnoteにいただくサポート。(サポートいただいた方々、本当にありがとうございます。身動きがとりにくい身として、自分がしたことに対価をいただけることはこの上ない喜びです。)
できないこと、選べないことはあまりにも多いけれど、できることを探していきたいと思っている。
わたしの願い
同じような境遇の親が必ずしも「働くべき」と思っているわけではない。
夫婦間で合意の上で役割分担がなされていれば、それはひとつの家族の形だ。我が家も今そうで、夫が外で稼ぎ、私が専業主婦で家のことと娘のこと全てを担っている。
ただ、選んでそうするのと、選べずそうせざるをえないのとは大きく違う。
病気や障害はある日突然誰にでもふりかかる可能性がある。そして病気や障害をもったこどもが生まれてくることも、元気にすくすくと育っていたこどもがある日突然事故や病気で重い障害をおうこともある。
それなのに、誰も皆まさか自分が、我が子が、そうなるなんて考えもしない。私だって、夫だって、そうだった。
そして、どの雇用主も、きっと自分の会社の社員のところに病気や障害をもったこどもが生まれてくるなんて、考えもしないのだろう。
その時がきて始めて、手放さなければならない事の多さに、選ぶ事すらできないことの多さに、愕然とするのだ。
今、新型コロナウイルスの関係で世の中が大きく揺れ動いている。
オンラインでどこにいても繋がれる今、働き方も大きな変化の時を迎えている。
様々な会社が、様々な業種のたくさんの人が、よりよい環境を整えよりよい働き方を考える今、願わくば新しい働き方の選択肢が増えることによって働く選択をできる人が増えますように。
どんなこどもの親も、働く選択をできる、どんな未来も自分たちで選び取っていける世の中がきますように、願っている。
いただいたサポートは娘の今に、未来に、同じように病気や障害を抱えて生きる子達の為に、大切に使わせていただきます。 そして娘の専属運転手の私の眠気覚ましのコンビニコーヒーを、稀にカフェラテにさせてください…