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誕生日当日に、来年の誕生日の目標を掲げる51歳
「誕生日おめでとう」「happy birthday!」
まあ、どちらも同じ意味ですけど。受け取るのも、送るのも苦手なもの代表格。
子供の時ならいざ知らず、51歳にもなって、同じ歳くらいの他人から「おめでとう」と言われて嬉しい人なんているのだろうか。おめでとうと言うからには、せめておめでたい雰囲気を作ってくれよと思う。そうだな、花の一本でも送るとか、数日前にランチの誘いくらいはあってもよかろう。そんなことまではする気がないのに、空いた時間に惰性で「おめでとう」LINEとか、いらない。ありがたくもないのに「ありがとう」と言わねばならないこっちの身にもなってほしい。
年賀状と似てるなと、思った。いらねえけど、ありがとう状態。数分でも私に意識を向けてくれたことに感謝すべきなのかもしれないと思うべきなのか。いらねえって毒付く自分の底意地の悪さに自己嫌悪。送った側は決してそんなつもりはないのだ。ああ、これ以上自分を嫌いになりたくない。
返事が面倒で、来年はいらないよと書きたくなる。しかし、それを言っちゃあおしまい、なんだろうな。そうなると、この人との交流はなくなるなあ、年に一度のことだし、我慢するか・・・というザ・日本人的な配慮&惰性的な行為。ああ、無意味だ。
これまでの誕生日に、ここまで苛立ったことはなかった。今の私の精神状態がいかに良くないかを表している。満たされていないからこそ、こんな些細なことに苛立ってしまうのだろう。
結局、惰性で送られる「おめでとう」を上書きされるほどの出来事がない暮らしが、私の心をささくれだったものにしている。今夜、こっそりファンだった役者から花でも届こうもんなら、こんなことに苛立ったりすることなく、適当に送られたLINEメッセージのことなんてその瞬間きれいに忘れてしまうはず。いや、日々の暮らしに、そこそこ面白い出来事が等分に散りばめられていれば、誕生日なんてむしろどうでもいいのだ。よくよく考えたら、今の私の暮らしには、子ども以外の他者の介入がなさすぎる。
夫が死んで5年半。家と職場、時々落語鑑賞みたいな生活が続いているが、そろそろ心ときめく出来事が起きても誰も何も言わないだろう。月に2〜3日でいいから心の底から楽しいと思える時間が欲しい。別に異性である必要はない。刺激的で、距離感をわきまえた人なら、そんな時間の共有ができそうな気がする。誕生日なんて、忘れてしまえる毎日が過ごせたら、どんなにいいだろう。
来年の誕生日こそは、ああ忘れてたわ、私52になるのね。でもそんなことはどうでもいいの。今からあれやって、これやったら、あの人に会って・・・仕事もあるし、ああ忙しい。と、惰性LINEに返事してやるんだ。そんな人生にできるように、この1年、老体に鞭打って頑張ってみる。