劣等感は無視していい
僕は無能だ。
だから昔からいろんなことに劣等感を感じている。
スポーツなんてかなり早い段階で自信を無くし、あぁ自分にはついていけないんだと完全に諦めて努力さえしなくなった。
一方で勉強は真面目だったから平均以上にはできた。
けど、近所に学年上位レベルで頭のいいやつがいて、いつもそいつと比べて劣等感を感じていた。比べているのは自分だけなんだけど当時はそれに気づいていなかったんだと思う。
劣等感の反対が優越感とするならば、幸運にも僕はそれを感じられることにも出会えた。
子供のときに早い段階で、僕はパソコンについて勉強していた。当時それをしているのは学年に2,3人いるかいないか程度で、優越感に浸れた。
特に努力もしていないのに周りから凄いと言われるのが気持ちよくて、自分の得意なことが見つかったような気がして、プログラミングとか技術関係にも手を出した。
というかそれしか自分にはできることがないと思えるほど、他のことに対して自信がなかった。
時間をそういうことに使いすぎた分、他人と関わるような経験が浅くてコミュニケーション能力が低いことにも劣等感を感じるようになった。
パソコンに飽きて挑戦したお絵描きも小説の執筆も、どれも満足するほど上手くなれなくて投げ出した。
そんな僕だが、最近は筋トレが続いているし、お絵描きも再開した。
完全に拭い去れているとは言い切れないけど、それでも劣等感はあんまり意味がないと最近、僕は考えている。
その理由は3つある。
生物的な感情は現代に合っていないことがあるから。
能力は平等ではないから。
自信をもつべきだから。
生物的な感情は現代に合っていないことがあるから
人間は社会性が高まりすぎたあげく国の制度とか就職とか、自然で暮らしていくのとは必要な能力が変わりつつある。
集団の中であいつの方が偉いから食事の順番を譲るとか、そういう風に資源の分配をしたり、社会的に生活するために劣等感は必要だった。自分より強い奴に無駄に襲い掛かっても、怪我するだけだ。
でも現代においては違う。
これについては後で書くがそもそも何かを学ぶ時に他人と成長の度合いを比較するべきではない。
それに、食事は分け合う必要があるけど、スポーツ、お絵描き何でもそうだが、能力を上げるための学びは、他人と分け合う必要がない。
自分よりすごい人がいるからと言って、自分がやめる理由には基本的にならない。
もしそんなことになれば、新人のハードルが高すぎる。
だからこそ、感情に影響されすぎずに、何かをやると決めたら後は淡々とやった方が当人にとって有益だ。
能力は平等ではないから
努力をすれば上手くいく、できるようになるまで諦めなければ、成功する。
ナルトという漫画が好きな僕にとってこの考え方はかなり深く刺さっていた。
今でも好きだ。
だから少し前まで、なんとなく能力は平等で、個体差があるといっても人間の脳に神経細胞は1000億個ぐらいあるわけだから、気にするほどの個体差はないだろうと考えていた。
短所があればその分だけ別のところが長所になるから、上手くいかないのは努力が足りないからだ。どうして自分はこうも弱いのだろうと、また劣等感を感じるのだ。
しかし、どうやら能力は平等ではないらしい。
才能、知性には凹凸がある。
パンチは得意だけどキックは苦手とか、掛け算は得意だけど引き算は苦手とか、人によって細かく向き不向きは違うし、生い立ちだって全然違う。
そういう要素が複雑に関係しあって人間の能力が成り立っているということは既に脳科学的にもわかっていることだ。
この能力の凹凸が全体的に低い人もいれば、凹凸が激しくてできることは凄くできるけれど、苦手なことはめっぽう苦手な人もいる。
良い悪いではなく、現実としてそういう個体差が存在するというだけのこと。
だから不得意な事があれば得意な事があるとも限らないし、同じだけ努力したら同じように結果がついてくるとも限らない。
それは生物的に仕方のないことだ。
能力は平等ではないからこそ、他人と成長を比較するべきではない。
自分とは違うのに、他人がどれだけ進んでいるかを気にしても意味がない。
そんな考え方で劣等感を抱いて、追いつこうと努力するのはあんまりいいことではないと思う。
それで成功する場合もあるかもしれないし、行動のエネルギーになりえるかもしれないけど、追いこすまで劣等感に苦しむのか? もし努力で追いこせたとして別の人の背中が見えてくるはずだ。繰り返していくうちに本当に楽しんでいる人の背中を見るかもしれない。
それよりも比較するなら過去の自分と比べてこれだけ進めたとかその程度でいい。
後は自分の成長を楽しみながら継続していけば少しずつでも前に進めるはずだ。
少なくとも劣等感を感じて苦しみながら努力するよりはよっぽどいい。
自信を持つべきだから
劣等感は簡単に自信を奪う。
諦めずに継続する必要があるというのはどこでも言われていることだが、それには自信があったほうがいい。
自信に根拠とか客観性は別に必要ない。
散々言っているように他人は自分の成長にあまり関係ないから。
自分ならできるって根拠なく思えばいい。
思うだけなら勝手にできることだ。もし難しいならそう思うことにしようって意識的に自分で決めてもいい。
自信がないまま練習して結果が出なくても、まあ僕の実力ならこれぐらいだよなって思うだけ。
だが、自信があって思い通りにいかなければ、試行錯誤できるようになる。いやいやこんなはずじゃない、もっとできるはずなんだって改善策を模索していける。
失敗したら本気で悔しいから改善しようと思えるし、成功したら本当に嬉しい。
自信がない状態で何か結果が出ても、ラッキーだったという程度であまり学べないように思う。もしくは本気でやっていないが故に間違った学びになってしまうこともありそうだ。
とは言え
とは言え社会の中で生きていくには相対評価はされるものだ。
いろんなところにランキングがあるし、就職活動でも他人と比較される。
現実問題として周囲より劣っていることを突き付けられ、苦しい思いをすることもあるだろう。
でもその事実だけでは当人の努力不足かどうかなんて誰も分かりっこない。
一番その問題に対して知っているのは努力してきた当人だけれど、他人のことを自分と同じレベルまで理解するのは難しいわけで。
不完全な情報しかもっていない状態で劣等感を抱いて自信を無くしそうになる。
そういう時はいっそのことある程度精神的に距離を置いて他人のことは考えなくていいと思う。
それで続けていけるならその方がきっといい。
だからこそ他人と比較して感じる劣等感は無視して、根拠のない自信をもって自分の成長に時間を使うべきだと思う。
人の為に時間を使うのはいいと思うけど、それは思いやりとかそういうベクトルの話であって、劣等感を拭うためというのは少し違う気がする。