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なかなかポルノグラフィティと交差することがない音楽遍歴(中編)〜音のない森〜

こちらの続き、大学時代からポルノグラフィティにたどり着くまでを書きます。
途中、音楽に救われてなんとか文字通り生かされてきた時もありました。当時を振り返ると「生きてるだけでまるもうけ」と心底思えます。

大学時代(1993年〜1997年)

昭仁さんと同じく一浪を経て大学に入学(←僅かでも共通点を探る)
オーケストラの部活に入って音楽漬けの4年間を送り、母に「あなたを音大に入れた覚えはない」とちくちく言われてました。
そんなわけでやはり大学時代に一番聴いていたのはクラシック

大学時代に学生ローン組んで買い換えたフルートを未だに使ってます

本格的に恋愛も経験。
酸いも甘いも経験する中で聴くようになったのがまっきーこと槇原敬之

君が僕を好きだとわかったその日の帰り道の公園で
人に聞こえたってかまわない気持ちで
大笑いしたんだ

君は僕の宝物/槇原敬之 

なんでこんなに気持ちがわかるの!?って自分といちいち照らし合わせながら聴いていました。
ティーンエイジャーでポルノグラフィティのファンになったみなさんはこの年代でJazz Upとか狼とか聴いてるんですよね??
ものすごいギャップを感じます笑。

20歳になった時、突然両親が離婚します。
何の前触れもなく、ある日いきなり母が家を出て行きました。
もう自分も大人になった年齢だったけれど、今思い返しても何の予兆もなく、そして私は本当に母が大好きだったので現実が受け入れられず、当時付き合っていた大学の先輩だけに打ち合け、周囲にはひた隠しにしました。
今でも私の両親が離婚してることを知る友人はごく一部です。

当時、泣きながら繰り返し聴いていたのが今井美樹のPIECE OF MY WISH。今でもこの曲を聴くと胸が苦しくなる。

朝が来るまで泣き続けた夜も
歩きだせる力に きっと出来る
太陽は昇り 心をつつむでしょう
やがて闇はかならず明けてゆくから

PIECE OF MY WISH/今井美樹

引き続き徳永さんの曲は聴いてライブにも行っていましたが、ラジオや音楽雑誌をくまなくチェックするような熱量はだいぶ落ち着きました。
この頃に出たアルバムが徳永さんの中では一番好きです。


昭仁さんが浪人中に大量に音楽を聴いていた頃、そして若い3人が大阪で必死に音楽と向かい合ってた頃、私はクラシックを演奏する方に夢中だったので、好きな曲はたくさんあったけれど槇原敬之以外に新しい音楽に深くはまり込むことは少なかった気がします。


社会人スタート(1997年〜1999年)

就職氷河期の中、社会人生活スタート。
バブルは弾けたけどまだ「24時間働けますか」な風潮の時代で、1ヶ月の残業時間が100時間を越え、それを疑問にも思わずにいました。

休みの日には這うようにアマチュアオーケストラの練習に行き、また月曜日から必死に働く日々。

この頃はヒットチャートの空気感が変わってきた時代で、安室奈美恵やglobeといったいわゆる「小室サウンド」が跳ぶ鳥を落とす勢い。


でも私、TMネットワークが好きだったんです。TMのてっちゃんが好きだったんです。
私の好きな小室哲哉はもういない」とがっかりしてしまって、小室ファミリーは聴けませんでした。
つんくもシャ乱Qのほうがよかったのに…と当時のスーパープロデューサー時代の波には全然乗れず(というかあまりそれを良しと思えず)、そもそも忙しすぎて新しい曲を聴く余裕なんて全くなく、結局10代の時に聴いていた音楽を聴き続けていました。クラシックもそれほど聴いてなかったような。
徳永さんのライブもかろうじて行ってたけど、行くのが習慣になってたから行くようなモチベーション。
ミスチルやスピッツもリアルタイムでは追えず、少し遅れて20代後半になってから聴き始めました。

時は1999年、どこかで聴いていたアポロ。
疾走感のある気持ちのいい音楽だなと思ったけど、バンド名も怖そうな風貌も「自分には縁のないバンド」と感じてそのまま交差しないまま…


病んでいた時期(2000年〜2002年)

1999年末ぐらいからプライベートが原因でメンタルバランスを崩し、最終的にまあまあ重度な鬱病になって2年間入退院を繰り返します。
このこともまた書きたいんですが、今語り始めると完全に話しが逸れるので割愛。
人生で一番しんどい時期でした。

それまで音楽と活字がない人生なんて考えられなかったのに、一切の音楽も活字も受け付けなくなりました。
音が聴けない。暗闇もつらいけど光もつらい。
全ての音楽を遮断。無音の生活。
最初の入院が決まった時、心細くてなにか音楽を聴けないかと必死に探し、ひとつだけ聴ける音楽を見つけました。

どんなにせつなくても 必ず明日は来る
ながいながい坂道のぼるのは あなた独りじゃない

僕は神様でないから 本当の愛は多分知らない
けれどあなたを想う心なら 神様に負けない
たった一度の人生に あなたとめぐりあえたこと
偶然を 装いながら奇跡は いつも近くに居る

ああ 大きな愛になりたい あなたを守ってあげたい
あなたは気付かなくても
いつでも隣を歩いていたい

奇跡~大きな愛のように~/さだまさし

個室の病室にラジカセを持ち込み、一番小さなボリュームで24時間この曲だけを流し続けました。
今思い返しても尋常じゃないメンタルだったんだと思います。わずかに聴こえる音量のこの曲だけを3ヶ月間、24時間聴いていました。

家族以外には誰とも会っていなかったのですが、入院して3ヶ月経ってやっと少しずつ人に会う気力が出てきた時、何度も面会に来てくれた優しい人がいました。
聴ける音楽がなくなってしまったと話した時に、いつか聴いてほしいと渡してくれたのが槇原敬之のアルバム「太陽」と、槇原敬之詩集。

そんな風に僕らがいくら抗っても
仕方ない程 時は流れ
今日も誰かが星になって誰かが生まれて来る

だから僕はもうあまねく風に
わざと背を向けたりしたくない
君も同じ事をしろとは言わないけど
僕はそれを勧めよう

彗星/槇原敬之

何も求めずに 何も変わらずに
いつも僕らを照らす太陽を
この暗闇の中 雨に打たれながら
ずっと待ち続けた
そうして今僕は 明るい日差しの中で
ずぶぬれになった僕に
変わらない あのぬくもりを
また感じ初めていた

太陽/槇原敬之

あのかわいらしいラブソングを歌っていたまっきーが、痛くなるほど内省的なライフソングを歌い始めたアルバムで、最初に歌詞を読んで衝撃を受けました。
まっきーの復帰アルバムで、私ももう一度音楽を聴き始めました。

結局2年ほど入退院を繰り返したのですが、若い人が多く、外出も自由にできる開放病棟だったので、体調が良くなると仲良くなった人たちと神保町の中古CDショップに出かけるようになりました。
音楽に詳しい人も多くていろいろ教えてもらいました。
でも、槇原敬之の太陽以外、何も覚えていません。当時の記憶は嬉しいことも悲しいこともきれいに忘れてしまったようで、何も思い出せないんです。
でも、常になにか音楽を聴いていたこと、病棟の共用スペースで「これ聴いてごらん」と言われてたくさんの音楽を教えてもらっていたことははっきり覚えています。

ポルノグラフィティが晴一さん曰く「ばーん!って行った」勢いのある時期に、外界から遮断されたような生活をしていたので、ミュージック・アワーもメリッサも一度も聴いたことがないまま。

まだリリース前だけど、きっとこの時期に音のない森を聴いていたら「あ、この抜け出せないつらさをわかってくれる人がいる」と共感できた気がします。
音も光も一切受けつけることができない、まさに音のない森。

身を屈め 泣いていた 音も無いこの深い森に怯えて
耳を塞ぐと 確かな鼓動だけ聞こえた

音のない森/ポルノグラフィティ

幸いなことに今の私にはそのままぴったりはまらない曲ですが、今回過去のことを書いていたらびっくりするくらい当時の心情にそのまま当てはまること、そして前向きになり始めた時期の歌詞だということがよくわかりました。
一番しんどい時に、最後のあの歌詞はとても書けない。

病んでた時期のことが想定より長くなってしまったので(でも書きたかった)、一度ここで投稿します。
次からは一気に元気になります笑。やっとポルノグラフィティ…!

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