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歌に代えるように〜歌を抱えてとロスト〜
昭仁さんの「歌を抱えて」は、聴いたことがありません。
正確には初めて聴いた時、早々に耐えられなくなって、慌てて再生を止めたまま今に至ります。
MVの昭仁さんがかっこいいらしいと知って音声オフにして観ようとしましたが、なんと歌詞付きの映像。なるべく歌詞を見ないように遠目で観てみたけどやっぱりしんどくなって、途中で再生を止めました。
それ以来、近寄らないようにしたまま早1年半くらい?
この土日は日本全国で旧センター試験である共通テストが実施されました。
10年前のセンター試験の日、母を亡くしました。
あの日以来、この風物詩とも言える入試の日は、母の最期とそれに至るまでの時間が否が応でも呼び起こされる日になりました。
母のことがとても好きでした。
私と違って美しく、聡明で、社交的。
私のいざという時の行動力や書くのが好きなことは母譲りかも。
でもその記憶は、母が40代の頃まで。
母が65歳で亡くなるまでの約10年間、母の笑顔の記憶はほとんどありません。
精神を病み、明るかった母の面影は全くなくなりました。
常に重苦しく暗い表情、声。
動けなくなったからなのか、クスリの影響もあったのかわずかな期間で30キロ近く増え、体型も顔付きもすっかり変わってしまった。
家事も丁寧で、部屋はいつも清潔に気持ちよく整理整頓されていたのに、どんどんと荒れていく。
アクティブだった母が雑然とした部屋で定位置の椅子から1日動かなくなり、家事もおざなりになり、食事も適当なものばかり。
好きだった本も読まなくなった母を、私は直視できませんでした。
明るく元気だった母が変わってしまったことを認めたくなかった。
精神だけでなく、段々と別の症状も出るようになり、倒れたり、動けなくなるたびにまだ小さかった子どもたちを連れて駆けつける日々。
治療を受けても一進一退、母はかなり不安だったはずですが、私はそんな不安を受け取めることもできず、なぜ良くならないのかと診断に疑問を覚え、苛立つばかり。
母の気持ちより、症状や疾患ばかりに目が向いていました。
そして少しずつ、でも確実に動けなくなっていく母。
亡くなる1年前、また別の症状で倒れ、末期がんであることがわかりました。
その時に私が真っ先に考えたことは、わが家の家計と自分の有休日数や介護休暇のシステム。
この先、母がどうなるかわからない。その時のために有休を取っておかなくてはいけない。この先の子どもたちの教育費や家計、自分の年齢や転職への影響を鑑みるといま仕事を辞めることはできないし、したくない。1ヶ月だけ取得できる介護休暇はいつか来る最期の時に使おう。
父を見送った時も冷静でした。そんな自分が冷淡なのではないかと戸惑ったこともありますが、ひとりっ子ゆえの責任感だったのだと思います。
同じように母の状況にも冷静でした。
冷静だと思っていました。
でも、やっぱりどんどん弱っていく母を認めたくなかった。冷静なようで冷静でなかった。
優しくない娘でした。
あんなに大好きな母なのに。
体調や生活の変化、入退院や通院の付き添いで仕事を休んで母と過ごすことは増えたけれど、母の気持ちをきちんと受け止めることはできないまま。
今ならあの時、母にアドバイスなんてなにもいらなかったとわかる。
ただ、話しに耳を傾ければよかった。とことん話しを聴いて、一緒に泣けばよかった。
今でも忘れられない最後の母からの年賀状。
「昨年はごめんね。今年は迷惑かけないようにするね」
すっかり変わってしまった母のことも、母に優しくできない自分も見たくなくて、こんな言葉を書かせてしまったことを認めたくなくて、苦々しい思いでこの年賀状を読み、そのまま処分してしまいました。
あんなに強く、美しかった母のこんな言葉、見たくなかった。
年末年始を一緒に過ごした後、体調を崩して一時的に入院した母から退院が決まったと連絡がありました。
電話で「迎えに来られる?」という母に、残りの有休の日数をこれからのために取っておいたほうがいいのではないかと考えて即答できずにいると、後から「めぐちゃん、無理しないでいいよ。ヘルパーさんに手伝ってもらうから。大丈夫よ」とLINEが入り、正直なところ、ほっとしました。
翌日、LINEで無事に退院したと連絡がありました。
これが、母との最期のやり取りになりました。
その次の日、全国でセンター試験が行われている日。
仕事中に訪問介護事業所から「約束の時間に自宅のチャイムを鳴らしたけれど応答がない」と連絡があり、駆けつけるとリビングで母が倒れていました。
慌てて救急車を呼ぶもすでに息はなく、呆然としているといつの間にか警察が呼ばれ、担架で病院へ搬送されるのではなく、納体袋に入れられて警察に運ばれた光景は一生忘れないと思います。
悔やんでも悔やみきれない。
ひとりで逝かせてしまったこと。
まさかこんなに早く逝ってしまうなんて想像もしてなかった。
それ以上に母のつらい10年間、母のことを受け止められなかった後悔。
そしてもうひとつ。
母が精神を病んだのは、たぶん私が20代の時に重い鬱病になったことがきっかけであること。母にとって最愛の娘がメンタルを壊し、最悪のことすら考えていたことが、母を苦しめていたこと。
当時、自分のことしか考えられなかった私を、母はただただ受け入れ、支えてくれました。
私が鬱から抜けた頃から母の調子が少しずつおかしくなり、徐々に精神を病んでいきました。
この後悔を私は墓場まで持って行くと思います。
10年経ちますが、母の遺骨はまだ私の家に置いたままです。
「歌を抱えて」について、なにひとつ語れません。
聴いたことがないから。
歌詞も読んだことがないから。
でも、最初のさわりを聴いた時、ちゃんと歳を重ねた親と向き合えた人の歌なんだろうなと感じました。
だから、とても耐えられなくて慌てて聴くのをやめました。
いつか聴ける時がくるのか。
この後悔が消える時はないのに。
たとい母が許してくれているとしても。たぶん、母は遠い空の上で「大丈夫だよ、いいんだよ」と許してくれていると思うけど。
最近、ロストの背景を初めて知りました。
(それまで恋愛の歌だと思っていました)
あなたは行きたくなかったでしょう?
突然の風に攫われるように
僕とは離れた道を行った
惜しむ間もないまま行った
…
忘れたくはない 消え去って欲しくない
だから今ここで歌に代える
あと何年経っても 僕の中に 深く深く留めておくよ
「歌を抱えて」はまだまだ聴けないけれど、見える景色ががらりと変わった「ロスト」は、私の重い後悔をも表してくれるようでした。
なかなか口に出すことのない想いを歌ってくれているように感じました。
忘れたくない。
母のことも、私が母を受け止められなかった後悔も。
だから、昭仁さんが歌に代えたように、文章に代える。
あれから10年。
これからも毎年、共通テストが始まるたびにあの日のことを思い出すと思います。
ここまでの内容は誰にも話したこともないし、自分の中で言語化したこともありませんでした。
消え去らないように、深く深く留めておけるように、このnoteを残します。
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この夏、計4日間因島に滞在して、4回青影トンネルを超えて中庄まで行ったけれど、昭仁さんが泳いでいた海に行ってみたかったけれど、「歌を抱えて」のロケ地である大浜にはなかなか近寄れませんでした。苦しくて。
島ごとぽるの展のバスツアーの謎解きで半強制的に大浜へ行き、やっと「大浜=歌を抱えて」から「大浜=島ごとぽるの展」に認識が上書きされ、やっと自力でも自転車で青影トンネルを越えて大浜まで行くことができました。
でも歌を抱えてのMVをちゃんと観ていないので、昭仁さんが泳いでいた浜辺がどこなのかはわからず。
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後から橋の向こう側だと知りました。残念。
次に行く時には島ごとぽるの展の記憶のままに、もう一度大浜を目指したいと思います。