小説『STYLE』/stage1 [Re:start]
「分かったよ。そうやっていつまでも仲良く『バンドごっこ』やってればいいだろ…!」
そう云って俺の前から去って行った『あの時』の情景が、今もなお心の奥底に深く突き刺さったままでいる───。
「おーいっ、修司! こっちこっちーっ!」
渋谷のとあるビル内に設けられたライブハウスの2階、カフェバーとなっている1席で手を振る青年が一人。この店は1階のステージを見下ろせるようにテーブル席が配置されており、何名もの客がライブの始まりを今か今かと待ちわびている様子が窺えた。
そうして『修司』と呼ばれた青年──藤崎修司は呼ばれるままに歩を進め、青年の向かい側に位置する椅子を溜息まじりに引いた。
「『こっちこっちーっ』じゃないですよ、まったく…。安達さんってば忙しい時に限って呼び出すんですから…」
「あー何? また他バンドの頼まれものでもやってんの?」
席に着いた姿を目にして近付いてきた店員に『とりあえずジンジャーエールを』とオーダーし、藤崎は青年──安達に向かって思わず苦笑してしまう。安達は藤崎にとって高校時代の先輩であり、誘われたらなかなか断れないリストに挙がっている一人だ。そうでなければ明日までに曲を仕上げなければならない状況で、わざわざ時間を割いてまでライブハウスになど足を運んだりはしない。
「曲作りはまぁ、好きでやってることなんで」
「なのに自分のバンドは『休止中』ときたもんだ」
「…それは云わないでくださいよ」
多分に突っ込まれるだろうと思っていたことを案の定口にされ、眉をハの字にさせながらそう言葉を返す。程なくしてジンジャーエールが運ばれてくると、二人はグラスを掲げ、その縁を軽く合わせて『お疲れ(様です)』と声を合わせた。
「───で、今日は一体何の用事で呼び出したんですか?」
単なるカフェや料理店ではなく、わざわざ『こう云う』場所に呼び出したとなれば、これから演奏するバンドにその理由があるのだと容易に察することができた。が、入口のブラックボードでざっと確認した程度だが、失礼ながら今更注目するようなバンドではない。にも関わらず、妙に客の入りが多い点が気になると云えば気になるのだが───…。
そんな藤崎の心中を浮かべる表情から読み取った安達はにまり、と口元に笑みを浮かべ問いかける。
「おまえもさ、『ショウ』って名前は聞いたことあるだろ?」
その問いに一瞬遅れ、『あぁ、』と思い出したような顔をする。
「確かどこのバンドにも属さずに、色んなところで歌ってるって云うボーカリストの…」
「そうそう、そいつそいつ。その『噂』の男が今夜ここで歌うんだよ」
だから呼び出したんだ、と云う安達に、藤崎の表情は何故か硬い。噂になる程レベルの高いボーカリストの歌が聴けるとなれば、普通は興味津々だろうに。
だけども安達はその表情の訳を知っている。
「───まだ他人のライブを観るのはツラいか…?」
問うたその言葉に返答はない。『あの時』からすでに1年が過ぎようとしていたが、未だに彼の心は喪失した痛みから逃れられずにいるのだと思い知らされる。
「…まさか相馬があんな形で辞めるだなんて思ってもみなかったもんなぁ…」
もちろん、安達とてすべての経緯を知っている訳ではない。それでも人づてに聞いた相馬の辞め方はあまりにも衝撃的だった。その言葉に藤崎は一度、ぎゅ…っ、と組んだ自身の手を握り締め、無意識の内に寄せていた眉根もそのままに口を開く。
「良いんですよ。俺らにとっても『彼』にとっても、これで───…良かったんですよ」
そう話す表情は『良かった』と思うには程遠く、まるでそう己自身に言い聞かせるかのように紡がれる言葉は安達の胸にわずかばかりの痛みを走らせた。ここで沈黙を生み出してしまっては増々気不味くなってしまうと、とりあえず安達は何か声をかけようと口を開いたが、丁度その時1階のライブスペースから大きな歓声があがった。見るとステージ上に次々とバンドメンバーが姿を現し、ライブは定刻通りにスタートを切ろうとしていた。
周りの視線が一斉にステージへと向けられるなか、藤崎はガタリッ、と勢い良く椅子から立ち上がる。
「───すみません安達さん。やっぱり俺、帰ります」
「えっ?! オイちょっと! 今からライブ始まるって…っ!」
今まさに始まろうとしているにも関わらず帰ろうとする自分を引き止めるべく発した安達の声の大きさに、周りから鋭い目が向けられる。だけどもそうした周りの反応よりも、この場所に居続けることのほうが藤崎には耐えられそうになかった。
「…安達さんの云う通り、やっぱり俺───…まだ引き摺っているみたいです。…情けないけど」
未だに未練たらしく引き摺ったままでいるから、他人がバンドを組んでいる姿を観るのがツラい。未だに未練たらしく引き摺ったままでいるから、楽しそうにライブをやっているバンドの姿を観るのがツラい。
『分かったよ。そうやっていつまでも仲良く『バンドごっこ』やってればいいだろ…!』
(だから、いつまでも『あの』言葉に囚われてバンド活動を始められずにいることが、どうしようもなくツラいんだ───…)
そのまま胸を握り潰されるかのような痛みに見舞われながら、逃げ出すような勢いでステージに背を向けた時だった。すでに始まっていた演奏を割るように発せられた歌声に、踏み出した足が知らず、立ち止まる。
───瞬間、有無を云わさずステージのほうへと振り向かされていた。その力強い歌声に、耳を心を鷲掴みにされていた。まるで感情のすべてを吐き出すかのような、『叫び』を思わせる歌い方───…。いや、だからと云って荒々しい訳ではない。むしろ音域も広く、耳馴染みの良い声をしている。
だけどもそう感じさせる程彼『ショウ』の歌声には激しく心を揺さぶる熱いものが込められており、気が付くと藤崎は逃げ出すどころか、ステージ上の彼から目を離せなくなってしまっていた。
「───聴く価値あっただろ? ショウの歌声は」
ふいにそう声をかけられ、はっと我に返った様子に安達は笑顔を浮かばせる。
「本当すげーよな、あいつの歌声は。完全に打ちのめされてたおまえの心まで引き止めてみせるんだからさ」
彼の歌声を聴けば少なからず『何か』を感じてくれるだろうとは思っていたが、まさかここまで釘付けにするとは予想以上だった。でも、これをきっかけに藤崎がまた前を向いてくれるならそれに越したことはない。
誘った甲斐があったという風に一人で何度も頷いている安達に対し、藤崎もまた他人の歌声に思わず足を止めてしまったという事実に正直驚きを隠すことができなかった。自らのバンドを『あんな』形で休止させてから、誰の演奏を聴いても、誰の歌声を聴いても壁を1枚隔てているかのような、どこか遠い場所にあるかのような感覚しか得られなくなっていた筈なのに。
(…そんなのお構いなしに人の心を激しく揺さぶるボーカリスト、か)
これだけ人を惹き付ける魅力を備えた歌声なら、インディーズ界隈で噂になるのも当然だ。2曲演奏したところでステージは終了し、惜しむ客席の声に応えるバンドメンバーの姿を見詰めていた藤崎はふと、口元に笑みを浮かべて安達のほうへと振り返る。こんなにも心が突き動かされる衝動に駆られたのは本当に、本当に久し振りのことだった。
「今日は誘ってくれてありがとうございました、安達さん。おかげで俺の欲しいものが見つかりました」
「…えっ? 何? おまえの『欲しいもの』って───…」
急に振られても意味が分からないという風に問い質す安達の言葉に、藤崎はただにっこりと笑みを返すと、その場から勢いよく走り出していた。
「ちょっ、…オイッ! 待てってば修司───っ!!」
「いやーっ、今日のライブは本っ当サイコーだったわーっ!」
ステージから捌けたと同時に、ドラム担当のメンバーがそう云って満面の笑みを浮かばせる。これまでに何度もライブは行なってきたが、その中でも一番の盛り上がりを見せたと云っても過言ではなく、心地良い満足感だけが全身を支配していた。
「でもおまえ、途中ちょっと走りすぎてたからな?」
「まぁまぁまぁ…。お客さんのノリも良かったし、良しとしておこうじゃないのよ」
余韻に浸りつつも冷静な指摘をするベースをギターが宥め、改めて前を歩く青年の背に声をかける。
「とりあえず今日は助っ人サンキューな、ショウ」
彼がボーカルを務めてくれたからこその盛り上がりだと理解していたギターが笑顔とともにそう感謝の言葉を述べると、ショウは静かに振り返り『…あぁ』と短く答えた。別に機嫌が悪いだとかそう云った訳ではなく、彼は口数も浮かべる表情も常に少ない。そのことを承知しているギタリストは別段気にする風もなく、未だ熱冷めやらずと云ったメンバーたちとそのまま打ち上げの算段を始めた。
「今日は俺がっつり肉食いたいなー、肉ー!」
「いやここは酒でしょ、酒」
「もちろんショウもきてくれるよな? この後の打ち上げ」
色々な提案があがるなか、他人事のように話を聞いていないと分かるショウへとそうベースが誘いの言葉をかける。今日の主役は何といっても彼なのだから、きてもらわない訳にはいかない。
そんな『参加して当然』と云わんばかりの顔つきをしているベースに対し、ショウは暫しの沈黙を挟んだのち静かに口を開く。
「…俺は───…」
「───君、良い声してるね…!!」
云いかけた言葉を遮るようにして頭上から突如聞こえてきた大声に、ショウはもちろん、バンドメンバー全員が声のするほうへと顔を向ける。と、そこには2階のカフェバーの柵から半ば身を乗り出すような姿勢で見下ろす藤崎の姿があった。
藤崎はショウの意識が自分へと向けられていることをしかと確認すると、さらに言葉を続けた。
「そんなに良い声をしているのにどうしてひとつのバンドで歌おうとしないのか、その理由を聞かせてくれないかな」
さまざまな楽曲を歌ってみたいから。色々な場所で自分の実力を試してみたいから。初対面にも関わらず不躾な問いだとは思ったが、彼からどのような答えが返ってくるのかを知りたくて仕方がない自分がいた。───が、藤崎の期待に反してショウはふいに視線を逸らすと、相手にする気はないと云いた気に背を向け歩き出そうとする。
そんな彼を再度引き止めるべく、なおも藤崎は言葉を投げかける。歌声を聴いて感じた印象をそのままに。
「そうやっていつまでも───…いつまでもずっと『独り』で君は歌い続けて行くつもりかい…?」
「───って、何云ってんだよ修司っ!」
問いかけの言葉を口にし終えたと同時に、追いかけてきた安達がカフェバーの客からすっかり注目を浴びてしまっている藤崎の腕を慌てて引っ掴む。いくら1年以上バンド活動をしていないとは云え、インディーズ界隈において彼はそれなりに名の知れた人物なのだ。下手にもめ事を起こせば表に出ていない分、憶測だけで何を云われてしまうか分かったものではないだろう。
しかも相手が噂の人物ともなればなおさら、安達はその場を収めようと柵から藤崎を引き離しにかかった。が、それでも答えを聞くまでは一歩も引かないというように、藤崎は強い意志を持ってショウの背中を見つめたままでいる。
───と、一旦は背を向け無視を決め込んでいたショウが顔だけを僅かに傾け、足元に視線を落としたままこう告げる。
「求めて───…求めて止まない『音』があるんでね、そんなこと考えてるヒマなんかねぇよ」
歌っている時とは程遠い、抑揚がなくどこまでも無機質な声色。
ショウはそう答えると今度こそ足を進め、気が気じゃない様子のメンバーたちとともに楽屋へと姿を消していた。その背を暫し黙って見送っていた藤崎はふいに大きく見開いていた両の目を和らげると、思わず笑みを浮かべ独り言を口にする。
「うーん。カッコ良いねぇ、あぁ云うの」
「…なーにーがっ『カッコ良いねぇ』だ、この暴走特急がっ!」
云い終えた途端、後ろからおもいきり頭を叩かれ、ようやく安達が傍にいたことを思い出す。振り向いた先に見えたその表情は当然と云うべきか、怒りを露わにさせたものだった。
「本当おまえってやつは後先考えずに行動するところがあるって云うか───…少しは周りの目も気にしろって云うんだよ、おまえは! 大体なぁ、初対面の相手にいきなりあんなこと聞く奴があるか?!」
「いやだって───…ねぇ…?」
安達の云う通り後先考えずに行動し、不躾なことを聞いてしまった自覚は間違いなくあるけども、周りの目がどうであろうがショウに対する興味のほうが大きく上回っていたのだから仕方がない。し、自分としては聞きたいことが聞けて『結果オーライ!』とすら思っている訳だ。
そんな反省する気と云うか、そもそも大ごとだとは微塵も思っていないだろう様子を察した安達は、これ以上は何を云っても無駄にしかならないと諦めた風に大きく溜息を吐いた。
「…まぁ、良いわ。とりあえず席に戻って飲み直そうぜ?」
当初の予定よりも前向きになり過ぎた感が否めなくもないが、藤崎が元気になったのであればそれはそれで良しとしておこう。安達はそう云って元いた席へと歩き出し、その背を目にしながら藤崎は再度『ありがとうございます』と心のなかで感謝の言葉を述べていた。
安達が今日、こうしてこのライブハウスに誘ってくれていなければ、今もなお自分は『あの時』に囚われたままだった。こんな風にもう一度、誰かと一緒に音楽をやりたいと思う気持ちに駆られるようなこともなかったに違いない。
(ある意味、彼との出逢いは運命なのかも知れない───…)
そんな風にさえ思ってしまう藤崎の胸中はいつになく晴れやかで、ずっと目を逸らし続けていた現状から今まさに、新たな一歩を踏み出そうとしていた。
「───なぁ、今さっきのって『STYLE』の藤崎修司だよな?」
先程のやり取りの影響によるものか、楽屋に着いてからも何となく無言で過ごしていたバンドメンバーたちだったが、着替えをしている最中にふと、ギターがそう口を開いた。それは全員が全員気になっていたことで、その問いを皮切りに他のメンバーたちも思わず着替えの手を緩めながら藤崎の話を始める。
「1年前に解散したから『元』だけどな。それ以来インディーズのライブにはまったく顔を出さなくなったって聞いてたけど、今回は誘われてきたのかね?」
「でも確か色んなバンドに楽曲提供してるって話だったよな? …なのにライブは観に行かないんだ?」
楽曲提供だけとは云え、依頼したバンドもその曲を初めて演奏るライブに関しては間違いなく『観にきて欲しい』と声をかけるだろうに。それでもまったく顔を出さないという話が広まっているところをみると、彼自身に何か問題なり事情なりがあるに違いない。
「俺だったら自分の作った曲がどんな風に演奏されるのか、気になって仕方がないけどなぁー…。そこはキッパリ仕事だって割り切ってんのかねぇ?」
作曲を担当しているギターが“自分には理解できない”という風に溜息混じりにそう云うと、すでに着替えを終えていたショウが言葉を挟んだ。
「さっきの男、名の知れたやつなのか?」
自ら話しかけてくることなどほとんど皆無に等しい相手から珍しく問われたという状況に、思わずメンバーたちは言葉を詰まらせてしまう。が、すぐにギターが『あぁ、』と言葉を返し、説明すべくその先を続けた。
「藤崎は『STYLE』ってバンドのギター兼作曲担当なんだけど、そのバンドはインディーズで知らないやつはいないってくらい有名だったんだ。ライブをやれば常に満員で、チケットはすぐにソールドアウト。ビジュアルも楽曲のレベルも高かったから、男女問わずすげぇ人気があったんだよ」
対バンをすると必ずファンを持っていかれるという噂まで広がるほど、とにかく人を惹き付けて止まない魅力を備えたバンドだった。結成から1年も経たずに1,500人キャパのライブを成功させ、メジャーデビューも秒読みなのでは? と他人事ながら気にかけていたことを思い出す。
「なのに、ある日突然ボーカルが別のバンドでメジャーデビューすることになって、そのまま『STYLE』は休止。てっきり俺は一緒にデビューするもんだと思ってたんだけどな」
一度だけ何とかチケットが取れてライブを観に行ったことがあるが、藤崎とボーカルの掛け合いは正直鳥肌ものだった。ギターのテクニックやその歌声が魅力的だったのはもちろんのこと、それ以上に二人が生み出す空気感はお世辞抜きに圧倒的だったのだ。
だからこそボーカルだけが脱退し、別のバンドに加入してデビューしたという話を聞いた時は正直驚きを隠すことができなかった。それから藤崎は一度としてステージに立つことはなく、他のバンドへの楽曲提供だけを行っている。
ギターの最後の一言には他のメンバーも同感だという風に頷いたり、『だよなー』などと声に出したりしていた。と、ふいに何かに気付いたかのように大きく目を見開いたドラムが、未だ上半身裸のままの状態で勢いよくメンバーのほうへと向き直る。
「───もしかしなくてもさ! 藤崎ってばショウに興味があるんじゃねーの?!」
テンション高めにそう云うドラムの言葉に、メンバーたちも『あっ!』と気付かされたかのように思わず声をあげていた。バンド解散後まったくもってライブハウスに顔を出さなくなったほどの人物が、初対面だろう相手にあんな唐突に声をかけてきたのだ。これはもう、もしかしなくてもその通りに違いない。
「マジかーっ! …ってことはバンド再結成もあるのか?!」
「だとしたらすっげぇ瞬間に立ち会ったんじゃね? 俺ら!」
「…いやいや、まだそうと決まった訳じゃないだろ…」
「で、で、ショウはさ、『一緒に演奏ろう』って云われたらどうするんだよ??」
あくまでも憶測でしかないと云うのにかなりの盛り上がりをみせているメンバーのなか、ドラムはそうストレートな問いを投げかける。当の本人としては答えなど決まりきっているのだが───先程『藤崎』という男が口にした言葉が何故か脳裏に思い浮かばれる。
『そうやっていつまでも───…いつまでもずっと『独り』で君は歌い続けて行くのかい…?』
自分の歌を聴いて、『あんな風』に云ってきた人物は初めてだった。でも、だからといってあのやり取りだけで何か特別な感情を抱く訳もなく、ショウはいつもと変わらぬポーカーフェイスのままで答える。
「頼まれればいつも通り、歌うだけのことだ」
「んぁ~っ! そういうことを聞いてるんじゃないのになぁーっ!」
『バンドを組んで一緒に演奏ろう』と説明しなかった己が悪い訳だが、完全に的がずれているショウの返答にたまらず悶絶してしまう。
ステージ上ではあれだけ感情を露わにして歌う彼だが、普段は何事に対してもドライで、必要以上に他人に踏み込ませない雰囲気を常に纏っている男だ。なので新たに問い直してみたところで望むような返答が返ってくることはないと十分すぎるほど分かりきっているだけに、正しく問わなかったことが非常に悔やまれる。
「まぁまぁ、藤崎の話はこれくらいにしといてさ! とっとと着替えて打ち上げに行こうぜ!」
このままでは終わりそうにない雰囲気を断ち切るかのように、パンパンッ!、と手を叩きながらそう云うギターの言葉を合図に、メンバーたちは再度身支度を整え始める。当然のことながらショウはその後の打ち上げに参加することはなく、いつものように一人静かに楽屋を後にするだけだった。
(ここのフレーズはこうして…)
(…で、ここはもっとシンプルな感じで…)
「───じさき…」
(で、で、ここは一番盛り上がるところだから…)
「───藤崎くん…っ!」
手元のノートにガリガリとペンを走らせている最中に突如、自分の名を叫ぶ男性の声が耳に突き刺さる。そこでようやくはっと面を上げた藤崎は、今が授業中だったことを思い出す。見れば教壇に立つ講師はもちろんのこと、周りの生徒たちも何事かと視線を向けており───とりあえずバツが悪そうにへらり、と笑ってその場をやり過ごすことにする。
「その集中力の高さは称賛するがね、私の話もしっかり聞くように」
白髪混じりで黒ぶち眼鏡をかけた、いかにもベテラン講師といった風格をみせる男性の言葉に、『すみません』というように小さく頭を下げる。
(やばいなぁ~…全然今日の講義聞いてなかったや…)
学校に来ている以上授業はしっかり受けるべきだとは理解しているものの、今の自分にはそれよりも優先したいことがあるのだから仕方がない。その後も注意されない程度に講師の話を聞きつつ、頭のなかに次から次へと浮かんでくる音を手元の譜面に書き記す作業をやめることはなかった。
「おい修司ーっ、授業中になに怒られてんだよー?」
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、講師が教室を出ていくと同時に、仲の良いクラスメートが席まできてそう云った。藤崎が通っているのは新宿にある建築デザインが学べる専門学校で、座席はとくに決まってはいない。だからこそ今日はなるべく人目に付かないようにと一番後ろの端に座っていたのだが───…どこにいても悪いことはそうそうできないということか。クラスメートの言葉に藤崎はただただ苦笑いを浮かべるだけだった。
「つか、ここ最近ずーっとカリカリ何か書いてばっかいるよな? おまえ」
「うんちょっと───…曲作りしたくて」
自分が過去にバンドを組んでいたことも、現在は他バンドに曲提供をしていることもクラスメートのほとんどが知っている。なので別段驚かれるようなこともなく、普通に話は進んで行く。
「またなに? どっかのバンドの頼まれもの? でも、学校でまで書いてるなんて初めてじゃねーの?」
「あー、うん。今作ってるのは自分たちの曲だから」
「!」
「実はまたバンドを始めようかな、って思ってるんだ」
自身のバンドについては沈黙を守り続けてきた藤崎の口からまさかそんな言葉が飛び出すとは思わずに、クラスメートは途端、大きくその目を見開いてしまう。口ぶりは実にさらりとしていたが、授業中まで作曲の時間に充てている訳だ。藤崎がどれだけバンドの始動に熱意を注いでいるのかは一目瞭然だった。
「マジかーっ! 絶対観にいくから、ライブが決まったら教えてくれよな!」
「俺も俺も! ライブ楽しみにしてるから!」
バンドを解散し、ステージに立たなくなってからすでに1年が経とうとしているのにそう云ってもらえるのは正直嬉しい。始動できるかどうかすら定かではない状態ではあるけども、藤崎は笑顔で『もちろん』と答えた。
安達に誘われ、初めてショウの歌声を聴いた時からずっと、頭のなかで音が鳴り止まないままでいる。次から次へと曲のイメージが膨らんできてしまい、常にノートとペンを用意しておかなければならないくらいだ。
バンドを解散してからも曲作りは好きでやっていたことであり、どれも一切手を抜かずに作成してきたと断言できる。でも、他人のために書くものと自分たちのために書くものとでは完成した時の興奮や熱量が全然違う。久しく忘れていたその感覚に、藤崎はつい口元が緩んでしまうのを抑えることができなかった。
もちろん、あの時ショウが云っていた『求めて止まない音』が自分の作る曲のなかに存在しているかどうかは分からない。だとしても有り余るこの感情をすべて曲に込めて、どうしても彼に伝えたいと思った。そのうえで“違う”とジャッジされたのであれば諦めもつくというものだ。
(バンドマンたるもの、言葉じゃなく音で納得させないとね───…)
自宅のある駅からほど近いレンタルDVDショップの店内で、いつものように返却された商品を棚へと戻す作業を行う。近年は動画配信サービスで映画を観る人がほとんどではあるものの、DVDレンタルの需要はまだまだ健在だ。
仕事着である紺のエプロンを付けたショウは、どの作品を借りようか物色している客の邪魔にならないように配慮しながら、カゴの中から取り出したDVDを1枚、また1枚と棚へと戻して行く。ここでの勤務はすでに5年ということもあり、その動作はすでに慣れたものだった。
「───すみません、ちょっと…いいですか?」
棚の間で作業をしていると、客から声をかけられる確率は結構高い。作品はジャンル別に五十音順で並んでいるとは云え、お目当てのものがなかなか見つからないことも珍しくはないからだ。ショウは一旦作業の手を止め、声をかけられた方向へと向き直る。
「…何かお探しですか?」
生憎笑顔を作ることはできないが、不快にさせない程度の声色でそう訊ねると───そこに立っていた青年から『いやっ、探し物はないです』と返される。ショウはその返された言葉よりも、口にした青年自身に反応してしまう。
「……『藤崎修司』」
「えっ? あっ、…はいっ。藤崎修司です」
まさかフルネームで呼ばれるとは思わずに、というか自分の名前を知っていたことに、声をかけた青年──藤崎は大きくその目を見開いた。が、ライブハウスでいきなりあんな不躾な質問をした訳だ。あの後メンバーの間で『失礼な奴だ』という風に話題に挙がっていても可笑しくはない。
(そう考えるとあまり良い印象は持たれてないだろうなぁ~…)
そんなことを考えているとふいにショウは顔を反らし、再びDVDを棚に戻す作業を始めてしまった。客でないのなら相手にする必要はないということか。完全に自分の存在を無視していると分かるその様子に、だけども藤崎はまったく怯むことなく、バッグから取り出した1枚のCD‐Rをショウの目の前へと突き出した。
たしかに自分は店の客ではないけども、人伝に聞いてまで会いにきた訳だ。このままおとなしく帰ってしまっては何の意味もない。
「良かったらコレ、聴いてくれないかな」
藤崎の言葉はそれだけだったが、“自分が作った曲を聴け”ということなのだろう。『求めて止まない音がある』と答えたにも関わらず、曲を作って寄こしてくるだなど一体どういう了見なのか。だけども向けられる藤崎の目は無碍にできないほど真剣そのもので───受け取らずに済むような雰囲気ではなかった。
仕方なくショウは突き出されたCD‐Rを藤崎の手から受け取ると、DVDの入ったカゴへと無造作に放り込んだ。そんな扱いだろうと受け取ってくれたことに満足しているのか、目の端に映る藤崎の表情は笑顔だった。
「それじゃあ、お仕事頑張って」
まるで家族や友人に声をかけるかのように気さくな感じでそう云うと、藤崎は仕事の邪魔にならないよう早々に店内から出て行った。その後ろ姿を暫し見詰めていたショウはふいに溜息をこぼすと、先程と同じようにまたDVDを棚へと戻し始める。
「───お疲れ様でした」
17時を告げる店内のチャイムとともに仕事を終え、いつものようにコンビニで夕食を買ってから帰宅する。冬ともなると辺りはもう真っ暗で、六畳一間のアパートの電気を点けるとその足で台所へと向かった。今日は夜の仕事がないので別段急いで夕食を食べる必要もない。ショウは買ってきた弁当をひとまず冷蔵庫に入れ、代わりに手に取った炭酸水とともにベッドの縁へと腰掛けた。そのまま炭酸水を飲みながら暫しスマホでスケジュールの確認をしていたが、ふと、思い出したように顔を上げ、自分のリュックを見つめる。
(───そういえば…)
そういえば、藤崎から曲の入ったCD‐Rを受け取っていた。これまでのバンドのように『歌って欲しい』と頼まれた訳ではないので、聴かずに放置したところで何の問題もないだろう。
(それにしても不思議な男だったな)
芯の強さを感じる部分もあったが纏う雰囲気は終始穏やかで、突拍子もないことをされているにも関わらず不快に思わないのはその物腰の柔らかさによるものか。いや、そうでなければ自分の歌を聴いて『独り』だなどと云った相手にわざわざ答えを返した説明がつかない。
珍しく他人を気にかけていることに当の本人は気付かず、ただおもむろにCD‐Rを手に取り、プレーヤーにとセットする。藤崎が人気バンドのギター兼作曲担当だったと聞き、少なからず興味を持ったのかもしれない。だからといって聞き入る体制を取るでもなくおもむろに再生ボタンを押し、再びスマホの画面にと目を落とした時だった。スピーカーから流れてきた『音』に瞬間、息が止まるのを感じた。
ギターとドラムとベースだけのシンプルな音源にも関わらず、幾層にも重なり合ったメロディーが耳に肌に心に深く突き刺さってくるのが分かった。
暫しそのままで立ち尽くすことしかできなかったショウはふいにゆっくりとプレーヤーのほうへと向き直り、流れくる音の洪水へとその身を沈ませる。乾いた砂に落ちた水のように、躰の奥底まで急速に沁み込んでくる感覚───。紡がれる無数の音によって鮮明なまでに浮かぶ情景は、手を伸ばせば触れられそうな程リアルに感じられた。
気が付くとショウは、CD‐Rのケースを手に取っていた。もちろんその行為に意味はない。だけどもそれが必然であったことは確かだった。
“今週土曜日15時、五反田PJスタジオ”
「CD‐Rにメモ書き入れただけとかお前、バカなんじゃねぇの??」
1年振りに突然電話をかけてきて『バンド活動再開するから』といわれ、山のように新曲を送り付けてこられたことにも驚いたが、スタジオに入ってからというもの、さらに驚くことばかり聞かされているような気がする。
スツールに腰を下ろし、久々にバンドメンバーと顔を突き合わせて話すことになったドラムの木月豊は、呆れた口調で藤崎にそう云った。それについてはベースの古橋謙一も同感といった風に、うんうんと大きく頷いている。
現在の時刻は14時55分。とりあえず楽器のセッティングは完了しているが、あと一人、CD‐Rを突き付けた相手との約束は確約されている訳ではない。にも関わらず、いつものように緊張感のない、どこかのほほんとしている藤崎の様子に、木月はまたひとつ呆れた口調で言い放つ。
「大体修司はさ、色々と突飛すぎんだよ。どこのバンドにも入らないことで有名なショウをボーカルに誘うとか、無謀にも程がありすぎんだろ」
「でも、入ってくれたらすごいよねぇ~。俺、修司から送られてきた曲聴いてメチャメチャ演奏りたくなったもん」
『あの日』以来、他バンドのためにしか曲を書けなくなってしまった藤崎が、再び自分たちのバンドのためにあれだけの曲を仕上げてきたのだ。それにあのショウの歌声が乗るのかと思うと、プレイヤーとしては楽しみで仕方がないというもの。
もちろん木月も古橋同様、早く全員で合わせてみたいという気持ちは強かったが、それだけに相手が現れなかった時のことを思うと正直複雑な心境だった。
「そのメモ書きがどっかに落ちてる可能性もあるし、見てなかったら正直アウトじゃね? それに、予定がちょうど良く空いてるとは限らない訳だし…」
仮にきちんと見ていたとしても、時間までに姿を現さなかったらそれまでということ。そう漏らす木月の言葉に、修司はうっすらと口元に笑みを浮かばせながら云う。
「でもさ、何となく彼とは一緒に演奏るような気がするんだよね」
何の根拠もない、第六感的な発言。だけどもその一言に、木月も古橋もつられて笑ってしまう。
「そっか、ならくるかも知んねーな」
「…だね。修司のそういう勘って当たるからねぇ~」
その時、ドアの上部に付いている開閉を促すランプが点滅した。三人は顔を見合わせ、浮かべた笑みをより深いものへと変えて行く。藤崎の作る音楽に対して絶対的な信頼を寄せてはいるけれど、改めて二人はその凄さを思い知らされる。
「『求めて止まない音』に出会えたかい? ショウ───」
新生『STYLE』、始動。
… next stage …