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これで終わり



私はすごく、前職の仕事が好きだった。

こんな遊んでるみたいな楽しい仕事をしてお金を貰っていいの?と日々思うほど。そりゃ大変なこともなくはないけど、同僚はいい人で、治外法権的なぬるま湯中堅ポジションでもあり、メインの仕事の作業すべてが愛しく、好きだった。


とはいえ、意外と成り上がり欲?の強い私は、もっと大きい仕事がしたい、給料を上げたい、という気持ちを沸々と抱えていて、転職の機会を伺っていた。


まあでも楽しいし、と日々目の前の仕事を夢中で打ち返していた時に、出張先のバーで、会社のトップの人に「僕とセックスしない?」と打診されるという事故が起きた。


5秒前まで当たり前に会話が成り立っていた目の前の人間が、意味不明な言葉を発している。人間の形をしたモンスターに見えた。モンスター以上に、よく知っている人間の見た目をしている分、不気味に思えた。


気持ち悪いとか、悲しいとか、舐めんじゃねえみたいな色んな気持ちが渦巻く中で、小さく、でもハッキリと「転職の良い口実ができた」と思った。


人生で起きる全てのことに意味付けしようとするのは気持ち悪いけど、うじうじしている私に何か大きな存在が「ほら、行け!」と強引に背中を押したような気さえした。



ちなみに、よくハラスメントを受けた人の心理として「そんなこと言わせて/やらせてしまう自分も悪かったんじゃ」というように自分を責めてしまう事があると聞くけど、私の場合逆だった。


「あーあ、バカだね〜。こんなに馬力があって、前向きで、楽しくて貴重な人材をこんなアホなことで失うなんて」と会社に対して強気な気持ちがムクムクと湧いてきて、なぜか自己肯定感がマックスになった。自分の長所が無限に思い浮かんできた。

普段は仕事ができなくてすみませんと恐縮しながら生きてるのに。この気持ちは自分でも意外だった。




けれど、夜に「出張先で上司に●される」みたいなAVをわざわざ検索してしまうことがあり、そんなときは「あー私、傷ついてるんだな」と思った。
(全然関係ないけど、その時探し当てたビデオの女優さんが仕事で一度関わった事がある人でびっくりした、女優さんに転身していた)




苦しかった転職活動を何とか終え、退職の相談とともに、そのきっかけとなった出来事を直属の上司に報告した。
上司は思った以上に親身になってくれ、会社は迅速に対応してくれた。



そして1週間後、"謝罪の場"が設けられることになった。


先日読んだ柚木麻子の近著『あいにくあんたのためじゃない』に収録されている短編『パティオ8』の中で、こんな一節に出会った。

結局のところ、それなりに年齢を重ねた男が謝罪に追い込まれた時の、必要以上に恐縮した姿は、暴力に近いものがある。心より先に身体が拒否反応を起こし、これ以上この惨めな姿を見ているくらいなら、許してしまった方が楽だと条件反射で道を譲ってしまうのだ。それは優しさやいたわりではなく、大人の男がしょげているのは、ものすごく可哀想で見るに堪えないものだと、生まれた時から刷り込まれているだけではないか。

『あいにくあんたのためじゃない』柚木麻子


このフレーズに出会った時、「なんで知ってるの!!?」と強く思った。


かつて尊敬し、とても信頼していた自分よりうんと年上の男性が、立ち上がって、座っている私に対して「すみませんでした。」と90°になって頭を下げている。

これまで見たこともない、背の高い偉い人の、白髪混じりの頭頂部の分け目が焼き付いて、一生忘れないと思った。


口だけの謝罪なんて何とでも言える、そんなんで許すわけない、と思っていたのに、怒りは戸惑いに変わって、消えた。用意していた言いたかった強めの言葉をぶつけたけど、スッキリスカッとなんて全くなくて、後味の悪さだけが残った。


そもそも自分だって全く完璧な人間などではないし、「断罪する側」に居座り続けることにも心地悪さを感じる。 


でも、このショッキングな後味の悪さは引き受けるべき痛みだと思った。
例えばその出来事を報告しなかったり、謝罪が無かったとしたら、一生煮え切らない怒りを抱えたままだっただろう。そんな世界も自分も嫌いになっていたかもしれない。


社内の人には誰にも言わず、何事もなかったように働いていた転職活動中の日記にはもの凄い憎悪が書き殴られているけど、今ではその怒りの手触りも忘れてしまった。



今でも前の会社のことを好きだと思えるし、数年間働けて良かったと思っている。
幸いなことに、出来事と、仕事やそこで出会った人への感謝は切り離せている。


そう思えることにありがたみ(?)を持ちながら、この記録をもってあの出来事は私の中で「もう終わり!」としたい。

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