何を信じるのか、信じたいのか

人間の脳は何かを信じるようにできているとどこかで読んだことがある。詳しい話は覚えていないが、なんらかの理由や偶然が重なり何かを信じて生きている。

かつて日本で戦争があったときに、日本の人々は戦争に苦しみながらも大本営発表の、つまり国の発表する「戦況」を信じ続けた。信じざるを得なかった。当時の中心的なメディアであった新聞が国の発表をそのまま報道していたからだ。当時は海外の報道を手に入れられる人も限られていた。そして何より日本の国民は日本の政府が言うことを信じたかったのだろう。自分の国の偉い人が言うことを人は信じたがるものだ。

その戦争が終わると、国が発表していた内容とは全然違うことが起こっていたことが明らかになった。国内で行われていた同じ国民による酷い行いや、海外で日本軍が行った残虐な行為なども一般の日本人は後から知ることとなる。

今、ロシアとかウクライナとの間で起こっている「戦争」は2国間の争いであるけれども、かつて日本で起こったことと同じ構造を持っていると感じる。

戦争を続けて戦果を得たい大本営とロシア(あるいはプーチン)が自由な言論を封じて大義名分を語り、それに国民の大半は巻き込まれたり加担したりする。

それに対して戦争を止めたい一般市民やウクライナの国や人々は現地で起こっていることと戦争の悲惨さを伝えようとしている。

当時と違うのは世界の市民にはインターネットがあることだ。しかしロシア国民にとって現在の状況は80年前とほぼ同じだ。

今私たちにはインターネットがある。けれども何のために何を信じるのかは一人一人に委ねられている。

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