不自由が自由で自由が不自由で
休暇をとってマレーシアに。
前半は、ランカウイ島のリゾートにこもってひたすらのんびり。後半は、クアラルンプールでショッピング三昧。
ランカウイのホテルはとにかく居心地がよくて、清潔だしサービスも行き届いており、お客さんの質もいい。でも、一流ホテルにもかかわらず日本のホテルと比べると明らかにいろいろ物足りない。タオルの交換を忘れていたり、ミニバーの補充が十分じゃなかったり。レストランのサービスもどこか間が抜けている。なのになぜか、隙のない日本のサービスよりもよっぽど居心地がいい。日本じゃきっと見落とせないミスも、マレーシアのリゾートだと何故か普通に思えてくる。 よく言えばアットホーム。悪く言えば、隙だらけ。でもなるほどこれこそが 人間らしいサービスなんだと、素直にそう思えた。今の日本は少し、いやかなり、他人や周りに対して過敏になりすぎているんだろうな。だから結局、周りも自分も居心地が悪くひどく窮屈だ。
一転して、クアラルンプールは本当に不自由だった。トイレが汚い。レストランも清潔じゃない。街もごみごみしているし、案内板だって不親切。屋台同然のレストランで食事をしたり、床中水びたしのトイレで用をたしたりすることに対する自分の抵抗感に驚いた。いやいや、日本のスタンダードっていつからこんなに潔癖になったんだっけ?小学校のトイレとか部活の合宿所なんてこんなものじゃなかったっけ?私の野生魂、いったいどこいった?ここでも、日本のあれこれが綺麗で清潔で親切に発展しすぎた挙句、ひどく自分が厄介な人間になってしまった気がした。快適に思える範囲、生きられる世界が、いつの間にかすごく狭くなっている。それは恵まれて満たされていることの証である一方、人間としての脆弱さをもろにあらわしている。
日本はすごく便利で、自分のかわりに人や機械やシステムが手を動かしてくれるぶん、とても行き届いていて生きやすい。でもそれって所詮はゲタをはいた世の中であり自分なのであって、ホントの世界は誰も手を動かしてくれないし、手放しで進む物事なんてひとつもない。つまり私が自分の手で出来ること、生きられる世界なんてたかが知れていて、私自身は今も昔もとてつもなく不自由なのだ。普段の生活でそのことに気づいていないと、いつかホントに痛い目を見るなぁ。この不自由から脱却して野生の自由を手に入れないと、50年後には歩くことさえ出来なくなるんじゃないの?って、うそーんと思うような心配をしなきゃいけない世の中に突入するのも時間の問題かもしれないな。
日本はもっと、不自由さを感じながら生きるくらいがちょうどいいんじゃないかな。その方が一周まわって自由になれる気がするし、自分にも他人にも寛容になれるような気がする。少なくとも、自分たちがひどく縮こまった世界で、ゲタをはいて自由を手にいれてるってことにはちゃんと目を向けておいた方がいいと思った。
見せかけの自由を捨てて、野生の魂を取り戻したい。
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