あなたのいない世界で
父と兄と私、3人で母の帰りを庭先で待っていた。北国の短い夏が終わり、肌寒さを感じる陽気の中で。自宅では、兄嫁さんと甥っ子たち、私の夫と息子が同じように、今か今かとそわそわしている。
1階にある和室は、きれいに整えられていた。後は、母が帰ってくるのを待つばかり。
母の帰りを待ち侘びるなんて、小学生の頃以来だ。母は当時仕事をしていて、私は夕方になると2階にある自室の出窓から、仕事を終えた母が帰宅するのをワクワクしながら待っていた。買い物袋を下げている時は、決まってお菓子も買ってくれていたので、それも楽しみのひとつだったけれど、学校であったことや友達のこと、話したいことがいっぱいあったから。
でも母は家でもやはり忙しく、夕飯を作ってくれたり家事に追われていて、ゆっくりと話をすることはできなかった。寂しかったけれど、家族のために頑張ってくれているので仕方ないことも分かっていた。
そんなある日、学校から帰るとテーブルに一冊のノートが置いてあった。学生が勉強に使うような、変哲のないノートだ。開いてみると、母からのメッセージが書かれていた。
「おかえり!学校楽しかったかな?今日から交換日記をしよう。楽しかったこと、悲しかったこと、何でも書いてね。お母さんは夜にお返事書きますね。」
わくわくする気持ちが溢れた。それに、私の気持ちを察してくれた優しさが嬉しかった。今までの寂しさは、すっと軽く吹き飛んでいった。それからは、母の仕事が落ち着くまでの間は、日記という形で会話を楽しんだ。
今日も子供の頃のように、まだかな?そろそろかな?と首を長くして母を待っている。
1時間待ち、2時間待ち、3時間待ち。兄は時々家の中に戻り、父はじっと家の前で微動だにせず、私はそれらしい車を遠くに見つけると駆け寄って。母を待つその時間は本当に特別なもので、とても尊く感じられた。これが、私たち最後の家族の時間なのだと、嬉しささえ感じていた。お母さん、みんなで待っているよ、と心の中で話しかけた。
すっかり日が暮れ夜が始まった頃、大きなワゴン車に乗り、ゆっくりと母は帰って来た。交換日記のノートもなければ、話を聞いてもらうことも出来ないけれど。
2日前、母は蘇生後脳症により亡くなった。20年近く精神科に通い、何度か入院も経験した母は、自らの意志で沢山の薬を服用し、私たちの知らない世界へと旅立っていった。テーブルに置いてあった四角い付箋には「皆ありがとう!助けないでください。」と書かれ、別紙には父とのディナーの予約のキャンセルや洋服通販の支払いなどについて書かれていた。用意周到である。仕事から帰って来た父が安易にドアを開けられないように、チェーンまでかける程の決意だったのだろう。
突然のこととは言えない。命を断とうとしてしまったことは、今までにも何度かあったから。そんな経験をしていても、私たち家族は自死を防ぐことは出来なかった。
特に私は、母の不調を知っていながらも、結婚後に実家を出ている。父と2人で暮らすことになれば症状が悪化することは容易に想像出来たけれど、自分の幸せを選んで母を見捨てる形になってしまった。今更ながら、自分を責める気持ちに押し潰されそうになる。そんな自分へのせめてもの救いは、著名な方が書かれた本の中の一節。
「死は、一生懸命に生きた人へのご褒美なんじゃないか」という言葉だった。
確かに母は、一生懸命に生きていた。精神はぼろぼろになってしまっていたけれど、父を心底愛し、兄と私のことをいつも気にかけてくれた。私が結婚後に不妊治療を始め、何年も授かることができないもどかしい想いも共有してくれた。体外受精や顕微授精についても、応援してくれていた。
「あなたが頑張っているから、お母さんももう少し頑張ってみます」そんなメールが届くこともあった。母は、日々を何となく過ごしていたわけではなく、頑張って生きていた。毎日辛い妄想に駆られながらも笑顔で。
亡くなる前日に倒れた母は、父と救急隊の方々の手によって病院へと搬送された。コロナウイルス感染症対策のため、軽い咳症状のあった父は病院内にいれてもらうことは出来なかったそうだ。代わりに兄が付き添い、ずっとずっと手を繋いでくれていた。そんな中私は、まだ嫁ぎ先にいた。不妊治療で体外受精をした結果が出るのが翌日だったため、その結果を聞いて母に報告したいと思っていたから。母はすでに危険な状態だったけれど、私が行くまで待っていてくれるんじゃないかとバカな期待をしていた。
結果は、陰性。妊娠していなかった。奇跡が起きて、母が命を繋いでくれるんじゃないかとまで思っていた私は、意気消沈しながら帰省の準備を始めた。
飛行場に向かう車中で、母が息を引き取ったと、兄からの連絡で聞いた。涙は出なかった。
司法解剖を終えて自宅へと帰って来た母は、ただただぐっすり眠っているような表情で、話しかければ答えてくれそうな気さえした。ただ、頭に触れると、開頭手術後である現実を伝えるように、たくさんのホチキス留めによって頭の形が保たれていた。その後の湯灌の際には、丁寧に髪を洗ってもらえ、さらさら髪の母に戻ることができた。私は、母の背中を流したことはないけれど、この場で母の腕を洗わせてもらうことができた。亡くなってしまったけれど、ほんの少し親孝行できたかな、お母さん。
きれいになった母の周囲に、花や写真などを並べた。兄や私が幼いころ、抱っこしてくれている写真。キャンプ旅行に行った際の写真、イベントに参加した時のはつらつとした写真。父と2人で撮った写真。あと、大切なオルゴールも。
何十年も前、お父さんに買ってもらったんだと何度も聞かされてきた、人形がブランコを漕ぎながら音楽を奏でるものだ。松任谷由実さんの「anniversary」が収録されている。
「あなたを信じてる。瞳を見上げてる。一人残されても あなたを思ってる」
「明日を信じてる。あなたと歩いてる。ありふれた朝でも 私には記念日」
お父さんのこと、大好きだったんだなぁと思う。自身の病気と更年期障害と、色んなことが絡み合って、父への愛情表現が妄想性障害となって現れたのかもしれない。浮気を疑ったり、周囲の人が悪口を言っているとか、盗聴器が仕掛けられていると家族を責め立てたり。病院に通いながらも心配事は消えず、どれだけ不安だっただろう。
「一緒に死のう」と父に懇願したことも、一度や二度ではなかったそうだ。その度に父は
「子どもたちが悲しむぞ」
と言葉を返してくれていた。母の反応は
「悲しいのは最初だけ」
だったそうだ。分かってないよ、お母さん。お父さんも兄も私も、以前のような生活が出来ないくらいにまだ落ち込んでいるよ。
父は寂しさを紛らわすようにひたすら働き、家事をこなし、毎日同じ献立でご飯をたべているらしい。私は職業柄、高齢の方の支援をすることが多いが、自身の母に寄り添うことも出来なかったのに…と気持ちが塞がってしまうようになった。仕事前に動悸がするようになってしまい、休職せざるを得なくなった。また、葬儀後しばらくして、幻聴が聞こえるようになってしまった。ビデオテープをキュルキュルと巻く音や、雑音。「お母さん」「死ぬなら今日だよ」といった言葉まで。
私は9年前にも、親友を自死で亡くしている。その時も自分を責めたし、自分だけがのうのうと生きている事にも罪悪感があり、自傷行為がやめられず、安定剤の多量服用などもしてしまっていた。自分だけでは改善できず、1か月程入院生活を送った。今回もそうなってしまうのか。
5年ほど通院した不妊治療は、すっぱり諦めることにした。金銭面もそうだけれど、何よりも気持ちが限界だった。私の不妊治療を応援してくれていた母はもういない。もしも妊娠できたらきっと誰よりも喜んでくれる母は、もうここにはいない。疲れてしまった。夫にはまだ話していないけれど、きっと理解してくれるだろう。
母が亡くなり49日、不思議な夢を見た。夫と息子3人で、私の実家帰省することに。玄関のドアを開けリビングを見ると、父と母が2人並んで座っている。
「え?お母さん帰ってこられたの??」
目が点になるというのはこういう時をいうのだろう。母が答えた。
「やっぱり、お父さんといないと寂しくて戻って来ちゃった。心配かけてごめんね。」
困ったような笑顔で、でも、闘病中のうつろな目ではなくしっかりとした表情だった。その後すぐに目が覚め、真っ先に父にメールをした。父がどう思うかは分からないけれど、あれだけはっきりとした夢はいつも見られるものではない。きっと、本当に帰って来たんだなぁ。
母の魂は父のもとに戻ったかもしれないけれど、私の中の虚無感や言いようのない寂しさは変わらずに続いていた。何か、母に繋がるような経験がしたい。その時ふと、葬儀の際にコスモスが咲いていたのを思い出した。コスモスを見れば、元気になれるかもしれない。母を感じる何かを見つけられるかもしれない。すぐにカメラをもって、車を走らせた。
20分程で、コスモス畑にたどり着いた。平日の昼間は人もまばらだ。
枯れ始めてるものが多かったけれど、私の今の気分にはちょうどよかった。自信たっぷりに満開な花々だと、苦しくなってしまいそう。
母を感じられるものはないだろうか。そう思いながら写真を撮る。
何枚撮っても、静かにしゃがんでみても、母を感じる何かは得られなかった。それでも、母の面影を探す時間は、私の気持ちを少し和らげてくれた。また、寂しさに押しつぶされそうになった時は、コスモスや花々を見にこよう。
母を亡くして100日、また不思議な出来事が起きた。
世間はもう年末年始の準備で騒がしかった。この世に母がいないのに、新しい年に向けての掃除などしたくない。このままでいい、どうせいつか死ぬまでの間生きているだけなのだから。私は塞ぎこんでいた。前向きな気持ちになど、到底なれそうもない。
それでも、夫がてきぱきと大掃除をしてくれているのを黙って見ているわけにもいかず、普段通りの掃除だけは何とかやり終えた。
その後2人で車にのり、日用品の買い出しに向かった。夫が駐車場に車を停める際、私は久しぶりに車酔いをした。今までにも何度も経験があるので特に気にすることもなく買い物を終えて帰宅したが、気持ち悪さはまだ残っていた。横になりしばらくすると楽になり、普段通りの体調に戻ることが出来た。しかし夕方、再び嘔気がするようになってしまった。何も出来ない、何も食べられない、横になっていることしか出来なくなってしまった。
これは、もしかすると。と思い、夫に検査薬を買ってきてもらった。吐きそうなので、四つん這いのままトイレへ移動し、何とか検査が出来た。
妊娠している。何年も叶わなかった命が、お腹の中に宿っている。すぐに夫に報告し、最高の笑顔を見せてもらった。息子は不器用ながらに、塩むすびを作ってくれた。
私は、スピリチュアルなことなどには詳しくないけれど、49日のこと、100日のこと、このタイミングで知らせてくれた母に大きな声で感謝がしたい。生きていてくれたら、電話もメールも手紙も、届けられるのに。
ただ死ぬまでの間生きているだけだった人生が、この命を守る為の人生に一変した。
人生を終わりにしたい気持ちが芽生えることは未だにあるし、心身不調のため休職している仕事の復帰の目途はたっていない。出かけようと玄関ドアを開けた時にチェーンロックを外し忘れて「ガンッ」と大きな音を聞くと、母が亡くなる前にドアのチェーンをロックしたことが思い出されて苦しくなる。ご飯支度をしている時、野菜を切っている時は特に苦しくなる。子どもの頃、ソファに座ってごろごろしている時に母が料理をしているのを眺めている映像が浮かぶからかもしれない。
新しい命を授かっても、悲しい気持ちは癒えるわけではない。この気持ちは一生背負って生きるのだろう。けれど、自分で自分の気持ちを切り替えることはできる。母を想い苦しい気持ちになる時間も、子どもや夫を愛する時間も、どんな時間も大切にしていきたい。
命ある限り、自分自身と向き合って生きて行こう。
拙い文章しか書けませんが、読んで下さったあなたに気に入っていただけたら、とても嬉しいです。