愛の話はしないで 1
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彼女は五歳の時、田丸君という少年に恋をした。
その恋のきっかけが何だったのか、私は最後まで知らなかった。田丸君は色が白く、眼が丸くて鼻の尖った、妖精のような少年だった。彼女は幼稚園ではいつも田丸君と遊んだ。小学校に上がると別のクラスになったが、それでも彼女は機会を見つけては田丸君に話しかけた。教科書を借り、時々一緒に帰り、同じ委員会を選び、同じ課外活動を選んだ。田丸君といること、それが彼女にとって何より自然なことだった。
彼女はいつも、「それが私の初恋」と言っていた。しかし、きっかけひとつ、理由ひとつ語られない初恋というものが、果たしてありうるのだろうか。なぜ田丸君だったのか。なぜ田丸君でなければならなかったのか。おそらく、その答えを、彼女はついぞ知らないままだった。
だからそれは初恋ではなく、愛だったのではないかと私は思う。
田丸君は十歳になった年の夏、水難事故で命を落とした。
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私が生まれたのは、彼女が中学生になった四月のことだ。まだ硬い制服を着た彼女が、母親から包みに入った数枚の紙幣を受け取っている姿を、私はうつろな意識の中で眺めていた。
私ははじめ三万円だった。それまで彼女にと渡されてきたお年玉は、彼女の母親のもとで管理されていた。彼女はこの日から「貯金」を手にした。十三歳の彼女は普通の少女だった。ただ、必要なことのほかは話さなかった。本当に言葉を届けたい人は、もうどこにもいないかのように。
私は概念に過ぎなかった。世界に溢れてひしめき合っているものたち。私は空間にひしめき合う概念の間をすり抜け、すり抜けられながら、私にとっての唯一の主人の人生に従った。私の主人は、彼女の勉強机の鍵のかかる引き出しの底に、三万円をつまらなそうにしまった。
愛とは、あまりに広く、曖昧で、捉えがたい概念の一つだ。私は彼らの姿を見たことがない。私と同じ、貯金や財産という概念ならば、私ははっきりと目にすることができる。獣や化け物めいた姿をしているときもあれば、投資信託の営業マンと瓜二つの姿をしているときもあった。銀行に行けば、待合席の空いているところに思い思いの姿で座っている「貯金」たちを、いつでも目にすることができる。彼らは自身の存在を裏付けしてくれる心地よい場に居座りながら、主人が自分をどう扱おうとしているのかを、不安げに、あるいは尊大に、じっと見つめているのだ。
彼女は、私のことを強く意識していた。引き出しの底にしまわれたその日から、三万円として表わされる私は、彼女の意識の中に居場所を得た。それでも私はしばらくの間、増えも減りもしなかった。彼女はお小遣いを数か月ごとにきっちり使い切り、貯金ということをしなかった。気に入った本を数冊買うほかは、大した散財もしなかった。
私が威勢よく使われたのは、それから一年ほど経った秋の日曜日のことだった。彼女は引き出しを乱暴に開け、三万円を残らず安物の財布へ突っ込むと、そのまま電車に乗って、近在の大きな街へ向かった。
彼女はショッピングモールに入って、服を上着から靴下まで一揃い買った。複数の店を見て回りもしなかった。ただ、最も派手なブランドのショップに入り、目についた中でも派手な服を、取り合わせも考えず、とにかくショッピングバッグへ詰め込んだ。三万円はたちまち無くなり、私は釣銭の数十円だけの存在になった。それが済むと、彼女は遊び歩く少女たちの間を縫って、わき目も降らずにショッピングモールを出た。
彼女はブランドのしゃれた袋の上から大きな紙袋をかぶせて家に帰った。
その次の週の日曜日、彼女はごてごてと新しい服を着込んで、一人で地元の町を歩き回った。たちまち彼女の珍妙な姿は同級生の噂になり、親たちの耳にも入って、彼女は母親にひどく叱られた。高価な服はしまい込まれ、すべてはなかったことになった。
彼女には友達がいなかった。彼女が少女たちの一人の失恋を笑ったために、いなくなったのだ。私を浪費したあの行為は、無視され続けた彼女の、幼い自己顕示欲の悲鳴だった。だから私は、数十円に成り果てても特に恨めしくは思わなかった。少女の幼い心を護るためにこそ「財産」という己がいるのだと、殊勝なことを考えたりもした。
それからしばらくした頃、彼女の母方の祖父が長患いの末に死んだ。彼女は制服と黒いコートに身を包んで葬式に出た。冷たい冬の雨の日だった。
葬儀場にはつきものの、仲間の死体を己が食らおうと待ち構えている、獣のような私の同類たちはそこにいなかった。彼女の祖父は、誰もを納得させるお手本のような遺産相続を遺言して死んだのだ。遺族の財産たちは、まるで遺族本人のように、行儀よく、しめやかに、その主人たちに付き従っていた。陽炎のような香典たちが行きつ戻りつ、参列客の間をゆらいでいた。
彼女は泣いていなかった。
出棺の時、彼女は傘を差さずに外へ出て、運ばれていく棺を見送った。無表情な顔が冷たい細い雨にしとどに濡れた。彼女が傘を差していないことに気付いた叔母に慌てて建物の中へ引き戻されるまで、彼女は黙って立っていた。
「悲しかったのね――」
穏やかそうな叔母は、ぐっしょり濡れた姪の頭と顔をハンカチで拭き、優しく抱いた。
彼女は肩を抱かれながら、無表情に宙を見上げた。うつろに空を漂っていた私を突き抜けて、彼女は想像の彼方の天国を見ようとしていた。天国という概念は、私と彼女には遠いものだった。私は彼女の顔を見つめた。
彼女は泣けなかったのだ。涙の代わりに、彼女は晩秋の雨で頬を濡らしたのだった。叔母は静かにすすり泣き始め、その音は静かに斎場の一角に染み渡った。
祖父の遺産は彼女にも、形見分け程度に分配された。私はそうして、また形を取り戻した。
自分が殖えていく感覚は、自分が異形に成り果てていく感覚と言えばよいのかもしれない。私に付け足される私は、その直前までは別の者の財産の一部、別の概念の身体の一部だった。私は他人の身体を取り込み、飲み込み、形を変える。
それは人間の成長に似ているようで違っていた。
彼女が高校生だった三年の間、彼女は成長し、私は成長の真似事をした。
きっかけは両親の喧嘩だった。母は父を得手勝手な男だとなじり、父は自分に食わせてもらっているくせに、と母をなじった。物が飛び交う音で自室から顔をのぞかせた彼女は、父の手に包丁が持ち出されたのを見た。彼女は両親が気付く前に顔を引っ込め、鍵を閉めた。ドアにぴったりと耳を寄せ、来たる悲鳴が聞こえるのを待った。悲鳴は聞こえなかった。彼女はベッドにもぐりこんで朝を待った。母も父も、翌朝、当たり前のように生きていた。
数か月後には、両親の仲は表面上穏やかに収まった。
「あの子のこともあるから――」
両親がそうして互いを納得させたことを、彼女は知っていた。
父が母を刺そうとして、刺さなかった。彼女はその瞬間を、見なかったことにした。ある夜、彼女は引き出しを開け、最近になって始めた貯金と、祖父の遺産を合わせて数えた。それはいくら数えても、都会で家をひと月借りるにさえ足りなかった。
彼女は最近始めた日記を開いて、まだ幼さの残る字で書きつけた。「お父さんもお母さんもわたしも、お互いのことなんか全然愛していない。信用できるのはお金だけ。お金があれば、うちは全員別々に暮らすことができるし、その方が幸せだ。お金が欲しい」
次の日から、彼女はアルバイトを探し始めた。まもなく、隣町のレンタルビデオショップに仕事が見つかった。放課後、文芸部の活動がない日になると、彼女はそこで制服を着て働いた。
彼女は給料を振り込ませるために、初めて口座を作った。親から借り受けた印鑑を持って、彼女はある土曜の午前に銀行へ行った。彼女に従う私は、自分の身体が急速に満たされていくのを覚えた。銀行という場所は、もっとも我々が形を取りやすい場所なのだ。
私は彼女の側に並んで座りながら、己の姿を見つめた。無造作な服装の痩せた男の姿をしていた。レンタルビデオショップの店長にどこか似ていることに、しばらく考えて思い当たった。つまり彼女にとっての貯金とは、店長が象徴するものと同じなのだった。彼女にとって、三十がらみの独身の店長は、己の労働で生計を立てて自由に生きている大人そのものだった。そして私は、その自由の象徴だったのだ。
私は膝に肘をついて顎を載せ、隣の彼女を見るともなしに見つめていた。痩せている私より彼女はもっと華奢だった。やがて番号が呼ばれ、彼女はカウンターへ向かった。銀行の大きなカウンターに対して、彼女の細さははあまりにも頼りなかった。
彼女は真新しい通帳を手にすると、しばらくその残高を食い入るように見つめていた。
私はそれから増殖を始めた。高校生の給料は月に三万もなかったけれど、それまでの彼女のお小遣いからしたら非常な額だった。彼女は私を貯めるだけで使わなかったから、私はたちまち膨れ上がった。
私は今では、何でもできるような気がした。
彼女は高校に入って、必要なこと以外も話すようになった。内気だが気のいい少女は、死んだ少年の面影を忘れた顔をして戻ってきたのだ。今度は用心して、他人の恋の話にはひたすら、羨む素振りを見せることにしていた。
「いつか好きな人が見つかるよ」
そう言われても笑うようになった。
彼女は文芸部に入った。そこでは人が溺れる話ばかり書いていた。周りの部員は恋の話を好んで書いていた。彼女はそれらを読んでいた。それでも、自分では決してそれらの話を書かなかった。
「わたしにはわからないから」
それが彼女の口癖だった。
夏の夜、彼女はアルバイトの帰り道に寄り道をした。地元の神社で夏祭りが開かれていた。色とりどりの提灯がともり、屋台が並んでいた。食べ物を焼く匂いに混じって、祭りの夜の浮き立つような哀しい気配が混み合った境内を満たしていた。
彼女は光の綾なす境内を、人の間をすり抜けて歩き回った。時々、同級生とすれ違った。連れもなしに歩いている少女は彼女だけだった。子供に混じって列に並び、私の爪の先ほどの小遣いを使って、りんご飴を買った。
境内の外れの暗いところまできて、彼女はゆっくりとりんご飴をかじった。私は並んで立ちたいと思った。自分の爪の先が、剥がれて形を変えた、そのりんご飴の甘い表面をかじってみたかった。しかし私には身体がなく、貯金という概念が彼女の脳裡に浮かばない今、私の姿はおぼろに夜の気配の中を漂っているだけだった。
私は、彼女に頼られた唯一のものだった。だから力になりたかった。そして、力になる用意があるということを、伝えてみたかった。しかし自分の言葉一つ私は持たなかった。私はただの概念だった。誰も想起しない限り力を持たない、それだけのものだった。
遠い屋台の煙が、私をすり抜けて夜の闇に流れていった。
彼女は高校三年生の六月まで、二年間ほどアルバイトを続けていた。
ある梅雨の切れ間の夜、彼女は仕事を終えて、帰路についてから傘を取りに引き返した。もう店は閉じていたが、店長が残って仕事をしているはずだった。裏口から入った彼女は、電気のついていないロッカールームから人の声がするのに気づいた。近づくと、聞こえてくるのは呻き声だった。彼女は一瞬戸惑ったように立ち止まったが、扉を開けた。
電気のスイッチに手を伸ばすより先に、廊下の電灯が薄暗く狭い扉の奥を照らし出し、そしてそこで店長と他のアルバイトの少女がしていたことを浮かび上がらせた。
彼女はしばらくあっけに取られて、暗がりの中で悶える二つの人の身体を見ていた。彼女と、少女の身体をロッカーの一つに押し付けていた店長の男の目が合った。彼女は小さく頭を下げて、踵を返した。数歩歩いて、それから駆け出した。裏口から飛び出し、駅まで走った。途中でばらばらと雨が降ってきた。駅へ着くと動転して、一度逆方向のホームへ駆け上がり、それから正しいホームへ戻って電車に飛び乗った。
濡れたまま家について、彼女は部屋に飛び込んでまず通帳を見た。残高は数十万円になっていた。彼女は長い間その数字を眺め、それから通帳を胸に押し付けた。何度も金額を小さく口に出してつぶやきながら、そのまま床にうずくまっていた。
彼女はそのまま、電話だけでアルバイトを辞めた。二週間ほど経って、彼女はようやく置き忘れた傘を取りに、裏口から店へ入った。店長はバックヤードにいなかったが、例の少女の方に出くわしてしまった。彼女は身を引き、それからぎこちない笑顔を作った。急に辞めてごめんね。勉強に集中しろって、親がね。
「ねえ……あまり、気にしないでね」
少女の方が、口ごもるように言った。
「私、あの人のこと、嫌いじゃないから」
彼女はそれ以上何も訊かなかった。そうか、それじゃあね、今までありがとう。彼女は傘を固く握りしめて家路についた。
その夜、私は彼女の夢に現れた。
気づけば、私はカフェのような場所にいた。小さな丸いテーブルを挟んで、洒落た細い椅子に彼女が座っていた。長い髪を垂らして、いつもの大人しい服を着ていた。窓際の席で、光がたっぷりと差していたが、窓の外に景色は見えなかった。
私は彼女と黙って見つめあった。私は今、自分の顔がどのようなものなのか、見当がつかなかった。細い男の手が目に入り、あの店長に似た背格好のままであることだけはわかった。あの男の顔をしていなければいいと、それだけを願った。
彼女の手元にだけミルクの入ったコーヒーがあった。彼女は私を見つめたまま、カップを持ち上げてゆっくりとすすった。
「こんにちは」私は言った。あの店長よりも低い声だった。
「こんにちは」彼女も言った。
ここはどこで、私はなぜ彼女の前に姿を取って現れたのか。彼女に訊きたかったが、彼女もまた、私が何者か測りかねているようだった。
「わからないことだらけだね」私は漠然としたことを言った。
「そうですね」
「ここはどこなの」
「知りません。でも、たまに来ます。他の人を見たのは初めてですが」
「そうか」
彼女は私をあやしげに見つめたままだった。
「私はきみの財産だ」
「財産?」
「財産」本当は貯金というべきだったのかもしれない。私は教養や信用といった、無形の財を含まなかったのだから。それは小さな私の見栄だった。
「きみは私を増やしてくれた。それについては感謝している」
「そうですね」彼女は無表情のまま目を伏せた。「信用できるのは、お金だけですから」
「そうだね。私のことは信用してくれてかまわない」私はテーブルに肘をついた。甘いコーヒーの匂いが、私の鼻に届いた――私の鼻とは、いったい何なのか。「少なくとも、愛なんてものよりはよっぽど信用できると思う」
「愛、ですか」
「私も愛を見たことはないが、私はきみの側にいつでも実在している。通帳とか、現金とか、そういう形でね」
「そうですね」
カフェのような空間の中には、他に誰もいなかった。空席が数十席分、窓からの光で照らされた広い室内を埋めていた。私たちは明るい静寂の中にいた。
「恋、と言い換えてもいいけれど」
彼女は答えなかった。私はゆっくりと、言葉を継いだ。
「きみは――いつも、恋とか、愛とか、そういうものに対して、疎外感を持っている。だから、きみは寂しそうに見える。きみの周りは、そういうもので色づきだす頃だしね。ただ、私だって愛を見たことがない。財産なんて、愛から最も遠いものだ。その意味で、きみは一人ではないんだよ」
私は自分で、説教臭い、何も意味しないその言葉に驚いていた。まるで私は本当に、三十がらみの人間の男になってしまったようだった。この言葉はどこから出てくるのだろう?私はそのまま黙り込んだ。彼女はうつむいて、カップの底に残ったコーヒーを見つめていた。
「あの」彼女が顔を上げた。
「うん」
「愛の話は、しないでください」
「そうか。――ごめんね」
「いえ。それじゃ。ごちそうさまでした」
彼女はコーヒーを飲み干し、唇をなめて、静かに席を立った。それから、立ったまま少しためらったようにこちらを見ていた。
「……いつも、ありがとう、ございます」
小さくつぶやくと、わずかに微笑んで、彼女は、彼女にしかわからない出口に向かった。
2
彼女は大学生になった。彼女は共学の学校を選びも、高校時代と同じように文芸サークルを探した。
彼女は人が溺れる話以外も書くようになった。それは彼女の小さな成長といってよかった。「あなたの話には喪失感があふれているね。しかしその喪失が決して語られない、それがいい」などと評する先輩もいた。
ところが、一年生の秋に厄介なことが起きた。ある先輩の男が彼女を度々食事に誘うようになり、やがて、つきあわないかと声を掛けたのだ。彼女はしばらく迷ったが、断った。
「私にはそういうの、わからないので」
彼は自分の同期にその顛末を話した。彼女に直接は何も言わなかったが、数か月たったころには、文芸サークルの誰もが彼女の答えを知っていた。
「せっかくの文芸サークルなんだから、いろんな経験を積んで表現を深めた方がいいよ」
何かの折にそう言う者もいた。次の部誌に彼女が執筆した小説は、人が溺れる話に戻っていた。少女が人を殺して、死骸をベッドに残したまま一人で海に飛び込む話だった。少女のか細い肉体が冷たい冬の海に搦め取られ、溺れてゆく描写は彼女の会心の出来だったが、それを読む人は少なかった。
先輩は失恋の痛みを婉曲に飾った小説を書き、ささやかな評判を得た。
彼女は再び、アルバイトを探し始めた。今度は大学の近くで塾の事務員の職を見つけた。彼女はアルバイトを理由に、サークルの飲み会を休むようになった。
ところが飲み会の一つに、ある夜、彼女はアルバイトの帰り道で遭遇した。そこには例の先輩もいた。他の先輩が、彼女を無理に誘った。
例の男は同情を買いやすい男だったし、彼女の拒否も初心な少女の恥じらいと思われていた。居酒屋で、二人は偶然を装って隣に座らされた。彼女は慣れない酒を頼んだ。文芸論を装った恋愛論が始まった。
「ねえ、恋愛がわからないって、どういう感じなの」
ある男は意地悪げに笑いながら彼女に問いかけた。「やめなよ、困ってる」と隣に座る先輩が慌てたが、場の人々は笑うだけだった。彼女は小さな声で答えた。
「目に見えないから。わたしには、わからないんです」
「愛は目に見えない。その通りだ。一周回って文学的だね」
「見えないなら、感じさせてもらえばいいじゃない」別の誰かが言った。
彼女は鞄を掴んだ。「もう、帰らないと」立ち上がって、慣れない酒気にふらついて壁に倒れかかった。例の隣の先輩が、とっさに手を差し出した。彼女は反射的に、鞄を持たない左手でそれをはねのけた。場が静まり返った。彼女は財布から多すぎる額を掴み出し、テーブルに置いた。
「あの、お代、これで。失礼します」
「いいよ、俺が持つから」先輩は彼女が出した金を手に取り、再び彼女に握らせた。今度ははねのけるわけには行かなかった。彼女は仕方なく、それを再び財布にしまった。
「ねえ、――ちゃん」意地悪い問いをした男が、ゲームを台無しにされた腹いせのように、低い声で言った。「きみね、少し失礼だと思うよ」
「すみません」彼女はふらふらと店を出た。酒が回ったのか、ぽろぽろと泣いていた。彼女の手に握られ、握らされた紙幣は、私の姿を少しだけ確かなものにした。私は彼女の隣を歩いていたが、誰の目にも止まらなかった。
彼女は駅を通り過ぎて夜の街を歩いた。大通りの外れまできて、さびれたコンビニに入った。コンビニのレジの横には透明な箱が置いてあり、「あなたの優しさを届けてください・愛の募金」と書かれたステッカーが貼ってあった。彼女はそれをまじまじと眺めた。店員が胡散臭そうな目を向けた。
途端に、彼女は財布を再び鞄から掴み出すと、その中身を、札も小銭も残らず募金箱に投げ込み始めた。手が震えて、五千円札と数枚の千円札は上手く入らなかった。彼女はぐちゃぐちゃに丸めるようにしてそれを募金箱の中に押し込んだ。それから小銭を掴んでは、細い口から流し込んだ。店員もまばらな客も、あわてたように顔を背けた。十円玉が何枚かこぼれて床に落ちた。彼女はそれをもどかしげに拾って、また募金箱の底に落とした。
私はそれを見ていた。私の身体が、彼女の震える手で引きちぎられ、投げつけられ、箱の透明な壁にぶち当たるのを感じていた。痛みを知らない身体であったけれど、その感覚は痛みに似ていた。箱の底で硬貨がぶつかり合う音が、私にずきずきと響いた。
私は引きちぎられた彼女の心の痛みを共有している、と思った。そうだ、彼女が服を買ったあの時のように、私は使われ、痛みを共有することで、彼女の心を護るのだ。私は痛みに似たものを、歓びに似た気持ちで感じていた。私は愛ではなく金で、だからこそ彼女を護れるのだった。
彼女は金で満たされた「愛の募金」の箱を、ぽろぽろ泣きながら眺めていた。
その頃、アルバイト先に新入りがやってきた。同じ大学の同じ学年の男だった。初めて彼と同じシフトに入って顔を合わせた時、彼女は挨拶もそこそこにまじまじと彼の顔を見つめた。
「田丸って親戚、いたりする?」
「いや、いませんね」丸い眼に尖った鼻を持つ色の白い青年は答えた。「俺の親戚、みんな山梨に住んでるし」
「よく似てるんだ、昔の友達と」
「そうか」彼は穏やかに笑った。
私はその夜、初めて田丸君という少年のことを知った。彼女は小学校の時の色褪せかけた写真を日記帳のカバーの裏から引っ張り出し、米粒のような田丸君の顔を見つめていた。それから日記帳を開き、田丸君のことを、彼にまつわるすべての瞬間を書き漏らすまいとするかのように、何ページも何ページも書きつけた。彼女は泣かなかった。その代わり、夜の三時を回っても、彼女はひたすらのたくった字を紙に刻み付けていた。
それから彼女は、偽・田丸君とでも呼ぶべき青年に近づいた。彼のシフトの傾向を掴むと、さりげなく数日をそれに合わせた。好きな本の話や、彼の専門の話を聞き出した。彼の専攻は歴史学だった。彼女と彼は、文学と歴史学の境目についてよく話していた。彼女がよくシフトに入るようになったので、私はますます殖えていった。彼女は明るく笑うようになった。私の知らない笑顔だった。
青年は恬淡として穏やかで話し好きの性格だった。一言でいえば、好青年だった。私は彼女が、幼き日に失われた恋を取り戻し、その青年と付き合おうとするのだと思っていた。しかし彼女はそうはしなかった。毎日、彼女が日記に書くのは、その日出会った偽・田丸君ではなく、十年前に死んだ田丸君のことだった。ようやく初めて青年が日記に現れた時、そこにはこう書かれていた。
「これは恋じゃない。わたしは寂しいだけなのだ。あの人を好きになるのは、とてもあさましい。わたしは、恋をなくしたのだから」
偽・田丸君のことが好きだという相談を別のアルバイトから受けた時、彼女はぎこちなく笑って彼の趣味を教えた。やがて大学の近くの飲み屋で、二人きりで話す偽・田丸君とアルバイトの女の姿が見られるようになった。
彼女が偽・田丸君に対して想いを寄せているのを感づいて、相談を仕掛けて牽制をしたアルバイトの女のやり方を、私は好ましく思えなかった。しかし彼女は、偽・田丸君とシフトをずらした。私は減りもしなかったが、これまでのように殖えることはなくなった。彼女は自室でひっそりと、彼が教えてくれた歴史学の本を読んでいた。
それからしばらく経った、大学三年の冬のことだった。偶然、今は偽・田丸君の彼女になっているアルバイトの女と大学で遭遇した彼女は、その家で飲む約束を取り付けられた。
彼女を呼び寄せた女は、そこで、今は彼氏である偽・田丸君の愚痴を彼女に語った。面白くもない歴史の話をしてくる。就職活動のせいで構ってくれない。私は結婚したいのに、そんな話をしたがらない――
「それにね、あれのときだって」
「あれって?」彼女は何の気なしに訊き返した。
「え、ほら」女はそこで、意味のない笑いを洩らした。「セックス」
彼女はふっと青ざめた。「ああ、なるほどね」
彼女はそこから先、おそらく何も聞いていなかった。少し酔いすぎたかもしれない、と言いながら家に帰った。彼女の頭にお金のことなど微塵もなかったから、私は手を貸すこともできずに彼女の側を漂っていた。彼女は家に着くと、まずトイレで吐いた。それから、ベッドに倒れた。
その夜、私は何とかあのカフェのような場所に行こうと試みた。彼女がそこで、小さな丸いテーブルに突っ伏して泣いているのが見えるような気がした。彼氏とうまくいかない苛立ちを解消するためだけに、彼女に当たろうとした女の悪意も、その女と性的な関係を結び、愛し合っている彼という人間の欲望も、彼女にわからないことはすべて、私にもわからないと言いたかった。わからなくても、ここに私がいると言いたかった。しかしあの場所への行き方もまた、私にはどうしてもわからないことの一つだった。
私は眠っている彼女の側で、歴史学の本をごみ箱に捨てようとした。しかし私の手は、金銭ならざる本をまたもすり抜けた。
彼女は就職活動を終えた後、卒論と並行して、一本の評論を書き上げた。それは最近ヒットしたある恋愛歴史小説について、現代における歴史と文学のせめぎあいの場として分析したものだった。彼女はそれを、文芸サークル時代の友人の伝手を辿って、別の大学の評論同人誌に載せてもらった。その評論は反響を呼んだ。
「あれだけ丁寧な文が書ける子がいたなんて、って驚いてたよ、主幹の人」
友人は彼女を嬉しそうに褒めてくれた。「それに、分析対象への深い愛を感じる、だって」
その反響は、偽・田丸君の耳にも入った。卒業も近づいた頃、大学の食堂で彼は彼女に声をかけてきた。「久しぶり。ずっと会いたかったんだ」
「元気でよかったよ」彼女は微笑んだ。
「○○大学の雑誌の文章、評判良いんだってね」彼は楽しそうに言った。「読んだよ。あの小説家、俺も何度か読んだんだ。それに、昔俺たちが話してたことがしっかりした文章になってたから、なんだか手伝えた気がして嬉しかったよ」
「そうだね、ありがとう」彼女は笑った。それが彼女と偽・田丸君が会った最後だった。
彼女はさほど小さくもない印刷会社の事務員に就職した。それと同時に、私を全身の半分くらい使って家を出た。彼女が高校時代に願った自由がようやく手に入ったのだ。それは、私が彼女に拓いた自由だった。
新居で荷物を広げずに床へ転がった彼女をよそに、私はかつてあった万能感が急速にしぼんでいくのを感じていた。勝手に増殖できない以上、私が彼女の自由を支えてゆけるかどうかは、ひとえに彼女の働きにかかっていた。しかしさほど心配はいらなかった。彼女は稼ぎ、それ以上に節約した。あまりに節約するので、私は自分の指を切り落として、彼女の夕食に一品を足したいと思うこともしばしばだった。
やがて、私は彼女と二人きりで暮らしているという、その事実に目を向けるようになった。新卒の乏しい給料の中で、彼女はまず常に私のことを考えていた。私と彼女自身は、これまでにないほど意識の上で結び合わされていた。
私はひどく嬉しかった。それは、これで私が彼女を本当に護れるという、自負心の高揚に近かった。今では彼女を護ろうとするもの、そして護れるものは、名実ともに私だけだった。そして彼女もそれを知っていた。彼女の身支度も、食事も、住まいも、すべて私がその身を切って支えていた。すべての一瞬一瞬にその自覚が訪れたこの時期、私はたいして力こそなかったけれど、奇妙なまでに幸福だった。
夏を過ぎた頃、彼女は一人の知り合いから連絡を受けた。かつて彼女が評論を書いた例の小説の作家が、その知り合いの知り合いの知り合いであり、彼女に会いたがっているとのことだった。彼女はおそらく好奇心半分で、身支度をして出かけた。
作家は四十を少し出たばかりの男で、まだ若々しい悪戯っぽさを顔に残していた。彼女の評論を持ってきており、その一文一文を舐めるように解釈を尋ね、彼女は真面目に答えた。大枠を掴むと、作家は楽しそうに議論を吹きかけた。彼女も途中から、その会話を楽しむようになっていた。
「きみはサインをくれとか言わないんだね」
「先生とお話しできるだけで十分でしたから」
「いいね、そういう姿勢、好きだよ。本当に大事なものを分かっている」作家は満足げに頷いた。「また話をしようじゃないか」
彼女は金曜日の夜、度々作家に会うようになった。私は朧ながら、作家の貯金という概念を目にするようになっていた。貯金の姿を見れば、その人間の大まかな人格はわかる。作家の貯金は貫禄こそなかったが、博奕の多い人生を十分楽しんでいるように見えた。
何度目かの夜、彼女は作家の家に誘われた。彼女はわずかに逡巡した後で、ついて行った。狭い戸建ては本で溢れていた。彼女はあっという間に警戒心を解いて夢中になった。本を借りて、それだけで帰った。そんなことがしばらく続いた。ある夜、彼女が座り込んで、階段の側面に並べられた本を読んでいる傍に所在なく漂っていると、主人と同時に作家の貯金が降りてくるのが見えた。これまでになくくっきりとした姿を取った彼は、派手な柄のシャツを着た、主人と同年代の男の姿をしていた。
「騎士気取りか」彼はがらがらした声で尋ねた。作家が彼女に話すのとかぶって聞き取りづらかった。
「私のことか」
「貯金が、主人の外出にもれなくついてくるとは」
「金銭感覚がしっかりした主人なんだよ」私は言い返した。
「どうだかね。なんにせよ、概念としちゃ、お前だいぶ際物なんじゃないのか」
「何の用だ」
「俺の主人は、その子に惚れてるぜ」
「だろうな」
「お前は邪魔するつもりか」
「貯金に何ができる」私は答えた。「言ってみろ、金に何ができるというんだ」
作家の貯金は鼻を鳴らした。「何もできないならいいんだがな」
私たちは黙り込んだ。作家が低い声で、彼女の恋にならなかった恋の話を聞き出していた。彼女は偽・田丸君のこと、彼が彼女の評論の出発点にいたことを、微笑みながら話していた。
「今思えばあの人のこと、きっと本当に好きだったんですね、わたし。でも、これでよかったと思うんです」
彼女はそう言って話を締めくくった。
「それはどうして?」
作家が望んでいる答えは明らかだったが、彼女は目を伏せたまま答えなかった。作家の貯金はまた鼻を鳴らした。
結局、彼女は作家の密やかな誘いに、ついに乗ることがなかった。「忙しいから、もう家には来ないでほしい」と言われた最後の夜のあと、彼女は借りた本をすべて郵送で送り返した。そのまま、彼女は家にあった彼の本も、すべて積み上げてビニールひもで縛った。
その夜、私は再びあのカフェのような場所にいた。
向き合って初めて、彼女はもう華奢な少女ではなくなっていたことを悟った。彼女の手元にあるコーヒーはブラックだった。彼女の足元には、寝る前に彼女が縛った彼の本が、塊で転がっていた。
「あなたは、前に会いましたね」あまり変わらない口調で、彼女は話しかけてきた。
「そうだね」
「前は――」そう言って、彼女は記憶を探るように、光のほか何もない窓の外を眺めた。「ああ、そうでした」
「私のことはきみが呼んでいるのか」
「いいえ。あなたが来たいから来ているんだと思っていました」
「来たくても来られないこともあった」
「そうだったんですね。わたしも、来かたは知らないんです」
彼女はコーヒーをすすり、私は心地よい静寂に身を委ねた。
「この本、持ってきちゃいました。どうすればいいんでしょう」彼女はふと口を開いた。
「捨てるつもりだったのか」
「そう、ですね。でも、どれも好きな本でした。――君も、好きだった、本」
彼女は偽・田丸君の名を口にした。
「そうか」
「先生のことも、好きだった。だけど、間違ったみたいでした。何かを」
彼女は窓の外を見ていた。
「本当に、好きだったんです」
私は肘をつき、顎を載せて、少しだけ彼女の方へ身を乗り出した。
「前に、愛の話はしないでと言ったけれど」
「言ったかもしれませんね」
「――きみは、愛を知らないわけではないだろう」
彼女は私を見た。彼女の瞳に映る私がどんな顔をしているのか、相変わらず私は知らなかった。
「きみは、その本を愛していた。少なくとも。それから、歴史学と文学の境界線をめぐる議論のことも、愛していた。――愛していた人も、いないわけじゃなかっただろう」
「……どうかな」
「私が言いたいのは、きみは何も愛せないわけじゃないということだ」
「あなたは、どうしてそんなことを言うんですか」
「なぜだろうな」
私にもわからなかった。何を言おうとしたのか思い出そうと、口を開いて、また閉じた。それ以上は思い出せなかった。私はゆっくりと、軌道を直すように続けた。
「私は愛が嫌いなんだ。何もしないくせに、金よりご立派なものとされてるから」
「だから」
「だから、愛のことで苦しむのは、やめればいい」
「苦しんではいないですけれど」
彼女は再び窓の外を見た。彼女の横顔は、白く照らされて光っていた。
「きみには金がある」
「そうですね。私にはお金がある」
「確かに、愛は金で買えないかもしれない」
「……」
「逆に考えるんだ。愛は結局、金にも値しない、その程度のものだと」
「あなたは、本当にお金ですね」
彼女は外を眺めたまま、笑った。窓からの光に溶けるような、淡い翳のある笑みだった。
そのまま彼女の夢が醒めるまで、私は光の中の彼女の横顔を、ただ黙って見つめていた。
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