片目弱視 元・子どもの立場からコメントを頂きました
片目弱視の治療 元・治療を受けている子どもの立場からありがたいコメントを頂きました!
こんにちは、近藤ろいです。
今4歳の上の娘は弱視治療をしています。
「遠視性不同視弱視」といいます。
左目が強い遠視であまり見えておらず、治療をしなければ将来眼鏡をかけても視力が出ないかもしれない状態です。
普段は治療用眼鏡を掛けて過ごしており、R5.夏からは健眼に布アイパッチを着けています。
3歳児健診で見つかり、治療を受けることになった経過を描いた絵本を作ってみたり(有料販売しています)、
簡単にできる布アイパッチの型紙を提案したり、
習慣化アプリ 「みんチャレ」で励ましあうチームを作ったりしています。
今のシリーズでは、「アイパッチ嫌!」をめぐる模索についてお送りしてきました。
わがサイトはそれはもうアクセス数の少ない、ニッチなテーマのブログなのですが、
それでも優しい方はおられるものです。
"ひっつ"さんという方が、前々回の記事
に対し、当時、治療を受けていた子どもさんの立場からコメントを下さいました。
ひっつさん、ありがとうございます!
多くの示唆を含んだもので、取り上げて記事にしていいという許可も得ましたので、
今回はそのコメントを引用する形で
「子どもの立場からみた不同視弱視治療」などを
掘り下げてみたいと思います。
なおサンプル数2名(ひっつさんとうちの子)に対し、私が過度に一般化して語る不躾をご容赦ください。
そして私が「語る」と前置きした記事は、本当に長くなる不躾もご容赦ください。
ひっつさんは40年前の自分が子どもだった時のことを振り返り、以下のように綴って下さいました。
親の必死さを覚えているよ
冒頭から「ぶわーっ!」と救われた気持ちになりました。
片目弱視でアイパッチやっている親御さんの皆さん!
お聞きになりました?
子どもは親の姿を見ていて、覚えてくれているんですって!
いや、ひっつさんが特別優秀な記憶力の子どもさんだったのかもしれませんが。
いやいや、ここは一般化して語っちゃうぞ。
なんかねえ、もう毎日毎日「アイパッチ着けて」「イヤ!」「…」
の攻防を繰り返しているんですよね。
主に母親である私が。
自分だけが"妖怪アイパッチ着けろ"をやらされて。
しかも治療成績50%で、こんなの効果あるのかなー? いつまで続くんだろう?
とか自分でも疑問に思うところを「いいから着けろ」と捻じ伏せて言い聞かせて。
工夫して、寝る時間を削って布アイパッチを作っても、
結局「嫌なものはイヤ!」に回帰して。
でも「アイパッチ着けろ」を辞める訳にはいかない。
しんどいなあ。
と思う事多々あります。
でも、子どもは何となくであっても、親の必死さや、
工夫を見て、頭に留めておいてくれる。
「だから、着けよう」にはならなくても、
夫は仕事に行っていてこんなしんどさ知らないから褒めてくれなくても、
自分のしている努力は虚しく消えていくものではないんだ。
子どもの頭に少しは引っかかってくれているんだ。
こうわかるだけでも、私はものすごく救われた気持ちになりました。
普段、「アイパッチ着けろ」「嫌」という表面的なバチバチ対抗しかしてないし、
相手は4歳児なので、言語化する技量もないのですが、
「お母さん、あのね。本当はわかっているよ。
お母さんが一番わたしのことを思ってくれて、がんばってくれてるんだよね。
着けたくない って気持ちもわかったうえで、
それでも憎まれ役を引き受けてでも、寄り添ってくれてくれてるんだよね。
褒めてくれたり、励ましてくれたり、
わたしが続けやすいように、たくさんの工夫をしてくれているよね。
誰に褒められなくても。
わかっているよ。
ありがとう」
こんな風に思ってくれてるんですかねえ。
言いすぎですかねえ。
いや、思ってくれていると信じておきましょう!
次の引用いってみましょう!
片目の視力が上がると不快は軽減されます。
皆様、お聞きになりました?
「いつまで親子ともにしんどい思いをするんだろう?」
その一つの山場を教えてくださいました。
!!
アイパッチ治療って、
「する
→すぐには変わらない
→それでもやる
→視力上がる
→視力が安定するまで、しばらく健眼遮蔽を続ける
→眼科の先生の判断でアイパッチ終了」
という流れだと理解しています。
ひっつさんの言葉を掘り下げるなら、
「する → すぐには変わらない → それでもやる → 視力上がる」
ここまでが一つの山場だということになります。
もう一つの山場は、後半の「視力が上がっているのに、なぜ続けなくてはならないのか山」だと思っていますが。
そういえば我が娘も、遮蔽して4ヶ月くらい経った頃から
「アイパッチをしていても見えるようになった」と、
晴れ晴れした表情でしきりに言うようになりました。
(こやつ…布アイパッチの隙間からズルして見る技術を習得してしまったな)
と思っていたら、本当に視力が上がっていた(0.4→0.8)という出来事がありました。
後半の山に比べたら、前半の山は登るのが苦しそうですね。
「不快」。
見えるものを隠して見えないほうだけで生活させられる、という不快さがありますからね。
前半と後半では寄り添い方も違ってくるのかな?
ひっつさんの言う、弱い方の目の視力が上がるまでの間は、
「見えていなくて不安なんだね」
「不快な思いを強めてるよね」という、
不安感や不快さに寄り添う態度。
だから、もしかしたら、取り組みなんかもあまり細かすぎることをやるんじゃなくて、
受け身でもできる動画視聴やスマホゲームなんかでもいいのかもしれない。
あるいは、そんなに訓練しなくても、とりあえず時間数着けることが一つの目標。
視力が上がってきて、後半の山に差し掛かったら、
いかに着けている間に楽しく作業をさせるかの工夫。
ピースとかワークとかの手数を増やしてやる。
そんな感じでしょうか?
長くなるので記事を前後半に分けます。