手塚治虫のバンパイヤはなぜ未完なのか?
手塚治虫先生のバンパイヤという漫画をご存知でしょうか。知らない人は、まず読んでみてください。
すごく、簡単に説明すると、オオカミ少年(うそつきではなく狼男的な)の話です。この作品のバンパイヤとは、動物に変身できる人間を指しています。いろんな動物が出てきます。
ドラマ相棒の水谷豊さんのデビュー作となる実写とアニメの合成によるドラマも作られました。
しかし、なんと言っても強烈なのは、悪役の間久部緑郎でしょう。手塚先生は、スターシステムという異なる作品で同じキャラクターを出す仕組みを採用されていました。
間久部緑郎の元になった、ロックというキャラは、少し影はあるものの主人公もやっていた正義のキャラでした。ところが、バンパイヤでは凶悪な悪役として登場します。
また、手塚先生が本人役で登場します。
作品の感想ですが、3巻でまとまっている第一部は傑作です。
しかし、問題は続編の4巻です。第二部が未完です。
この第二部は掲載誌『少年ブック』の休刊で未完で終わったそうです。
もう古い作品だし、このコマだけ見てもネタバレにならないと思うので、のせておきますが、いかに中途半端なところで終わったかわかると思います。
雑誌が休刊になっても、他の雑誌に移ることも出来たはずです。なぜ、この作品はここで終わったのでしょうか。
事実関係はWikipediaにまとまってました。
『バンパイヤ』は、手塚治虫が『週刊少年サンデー』(小学館)及び『少年ブック』(集英社)に連載した漫画作品。特撮テレビ番組化もされた。第1部は『週刊少年サンデー』にて1966年第23号から1967年第19号まで連載された。手塚治虫本人がこれまでになく重要な登場人物となっているという特徴がある。第2部はテレビドラマ放映開始時にメディアミックスとして、『少年ブック』にて1968年10月号から1969年4月号まで連載されたが、掲載誌の休刊により未完に終わった。なお、講談社版『手塚治虫漫画全集』刊行の際、最終回配本として、編集部側が『新宝島』の収録を主張したのに対し、手塚は「かきおろしの話題作――たとえば「バンパイヤ」の完結編など――」を加えることを主張したが、編集部に押し切られたという。
ネタバレになりますが、最後のコマのセリフ、「いつウェコにすりかわったんだっ」とありますが、マジで分かりません。
どういうトリックがあったのか、めちゃくちゃ気になります。しかし、それはもう永遠に分からないのです。
手塚先生自身が語ったバンパイヤ
最近、ある少年誌に、「バンパイヤ」というマンガをはじめた。これに、物凄く非難が集中した。
「まれにみる駄作! やめちまえ。手塚はもう終わりだ」
「バカヤロー手塚、絵は荒涼、ストーリーは陳腐。独創のカケラもない。そんなに金が儲けたいか」
ボクはとび上がり、ノド仏をかきむしり、鼻毛を五本ずつひっこ抜き、ウオノメをナイフでけずりとって激怒する。
そんな読者は、たいがい高校以上のオールド・ファンに多い。
くやしい、有り難い、悲しい、情けない、にくたらしい、嬉しい、やるせない。
その人達は手塚節を求めてくれているのだろうな。ヒロイズム、ペシミズム、ニヒリズム、ヒューマニズム、リリシズム、正義、平和、勧善懲悪、大河ドラマ、それらの泣かせ場。
話はそれるが、谷内六郎氏は延々と、相も変わらぬ絵で『週刊新潮』を飾っている。彼の固定ファンが、あれ以上の冒険を望まないそうなのだ。
そしてボクの読者も、ボクの作品の印象をそっと心の中にしまいこんで、それ以外のものを受けつけず満足してくれているのだと思う。
その人達を裏切りたくない、と考える。しかし、そうすることによって、ボクは完全に、手塚節のマンネリ化に終わってしまうことがこわくてしようがない。
ボクは子供マンガ家だから、はっきりいって、子どもマンガを買わない層が支持してくれたって、肝心の子どもがソッポを向けば悲しい。そして、子どもってのは、時代と共にビシビシ変化する。中学生ですら、同じガキのくせに、小学生のことを、あいつらの考えてるこた、わかンねえや、といっている。従って、ボクの作品も、彼等に共鳴され支持されるには、年々刻々、変身していく必要があるのだ。そのためには一握りのオールド・ファンには、申し訳ないが、裏切ることになる。「尼寺へお行き!」とオフェリアをつきとばす、あの心境。
こんな悩みを、ボクは過去二十年の間に、何回もくり返しているんだ。その都度、クソミソな非難を受けた。
(中略)
「バンパイヤ」は----まだPRする気だよ、図々しい----「マクベス」のパロディである。ボクはシェイクスピアは齊藤茂吉氏ぐらい好きだが、「マクベス」と「リチャード三世」だけは大嫌いだ。あのロシア料理の羊みたいなどぎつさが手塚節に合わないらしい。これを使う気になったのは、「悪とはなにか」という、愚にもつかないテーマの物語の、骨組みにしたかったからだ。間久部緑郎という主人公が、横浜の親不孝通りで、三人の星占いの老婆に、九竜虫かなにかを呑まされて、世界征服を予言されるところからはじまる。この作品に非難が集まったのは、まだほんの序の口で、読者はあまり唐突で異質な語り口に抵抗を感じたんじゃないか、といい意味に解釈したんだが、実のところ、ボク自身ひどく気持ちにいらだちと迷いがあることはかくせないのだ。
(後略)
(『話の特集』 1966年10月号 手塚治虫への弔辞 より抜粋)
真意はわかりませんが、唐突にでてくる画家の谷内六郎さんが間久部緑郎のモデルなんですね。変わりたいという気持ちが、狼に変身するバンパイヤであり、変わらずに自由にやってるのが間久部緑郎ということだったのかもしれませんね。