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紫煙と雨と生姜焼き

喧騒の中に煙を吐いた。好きになれない臭いが口元で舞った。店員は渦巻いた煙を顔に浴びつつ、無愛想に珈琲を置いた。そしてまた私は灰を落としてくちびるで煙草を咬んだ。

赤のベルベットのソファーを撫でながら、私は天井のステンドグラスを呆と眺めた。背後のパーテーションに頭を打ちつけ、腰を沈めた。伸ばした足に店員が躓き、舌打ちを一つして消えた。

吸った煙は死人の臭いに似ていた。ずぶ濡れで帰ってくるなり、「一万貸して」と手を差し出し、踏みつけた紙切れを笑いながら拾い、「もうここには来ないから。俺の分まで、幸せに生きろよ」なんて言う奴の臭いだ。

何が幸せにだ。幸せにできなかった奴の言える台詞じゃねぇだろ。むしゃくしゃしてきて、また煙の臭いを求める。欲しくもない臭さが、欲しくなってしまう。

その手を止める為に珈琲を啜る。好きでもない珈琲を飲んでいると、また煙を嗅ぎたくなる。適当に目についた男を誘うような感覚で、メニューの一番上にあった珈琲を頼んだ私が馬鹿だった。

浮気野郎と珈琲だけには、今後一切手を付けるまい。そう誓って珈琲を飲み干した。丁度良く店員が来たので水を飲み干して、注がせ、それをまた飲み干した。

空きっ腹に毒を入れたせいか、大変気分が悪い。そういえば今日一日、しょっぱいキャンディーを食べた以外は何も口にしていなかった。歯に詰まっていた毛を紙ナプキンに吐き出して、メニューを手に取った。

ハンバーグ、オムライス、カレー。気持ちが悪い。子供が喜びそうなものは気分じゃない。メニューに×を付けつつ、ひとつのメニューに目が止まった。

生姜焼きか……

手を挙げると店員が走ってきたので、これ、とだけ言った。店員が「お飲み物は」と聞くので、任せるわ、と言ったら無言で立ち去った。

外は雨が降り続いている。鬱陶しい雨だ。こんなに雨が降っているというのに人は絶えない。こんなところ、さっさといなくなりたい。しかし、この雑多な感じをここ以外には知らない。知りたくもない。面倒だから。だから私はここにいるし、きっとこの先もここにいるんだろう。

そしてきっと街中で楽しそうな彼を見つけて、どうでもいい奴なのに心のなかをモヤモヤとさせるんだろう。

女々しい、女々しいわ。先を擦り潰して、新しい煙草に火を付けた。最後の一本だ。これで煙草を止めよう。とかいって、近所のコンビニで同じ奴を買ってしまうんだろうな。

一息付いて、やっぱり臭いと思う。でも、止められないんだな、これが。

気の弱そうな女の店員が料理を運んできた。普通の生姜焼きに、お任せの飲み物だ。

「ミ、ミルクは、お、お使いでしょうか……」

二度と見たくもないと誓ったのに、お任せで出てきたのは珈琲だった。見栄を張って、女の言葉に、ええ、と返したのは間違いだった。仕方なく、ポットの中のミルクをカップのふちまでなみなみ入れて、そこに砂糖をどかどか入れた。

飲んでみるとまあ飲めなくはない。男と違って育ててやるのが簡単だ。それに砂糖は裏切らない。急に心変わりして塩だとか胡椒になったりしない。当たり前のことだが、あんなことがあった以上、すべてに対して不安になってしまう。

なんだ、私って意外に弱いじゃん。そう思うと自然と笑えた。

さてと、生姜焼きだ。一枚取って口に頬張る。まあ、うまい。普通の生姜焼きだ。

嫌いなトマトの横にマヨネーズが添えられていた。ダイエットの敵である。しかし、このときばかりはなぜか無性に付けてみたくなってしまった。疲れていたからだろう。たっぷりつけて二枚目を頬張る。

ははは、うまいはこれは。思わず笑ってしまった。マヨネーズってすべてがマヨネーズの味になってしまうので苦手だったが、生姜焼きの味が強いので、より美味しい。

米を食う。これまたうまい。乾ききった体に炭水化物が潤いを与えてくれる。

そして、残ったマヨネーズを最後の肉にたっぷり付けて、一口で食べる。噛むたびに肉汁とマヨネーズが舌の上で絡み合う。

食事をして、美味しい、と思ったのは久しぶりだった。あいつがいつ転がり込んできても綺麗な口でキスができるよう、においのないものばかり食べていたのだ。大して旨くもない、野菜やら豆乳やらを。

常に失せていた食欲が嘘のように平らげてしまった。

甘い珈琲を飲むと気持ちが少し落ち着いた。それでもまだ珈琲は許せない。だが、もしかしたら飲めるかも、とも思えてきた。飲み方さえ工夫すれば、わりとなんとでもなるのかもしれない。

横を見ると、プラスチックの壁越しに自分が反射して見えた。自分の、わりと前向きそうな表情が、笑えた。

次は、強い男が、いいな。
私を裏切ったりしない、強い男が。
あー。幸せになりてぇ。

そんなことを思いつつ、煙草の火を擦り潰した。

雨は小止みになったようだ。

#小説

新宿「珈琲 西武」より

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