2014年旅行記:ヤンゴン(ミャンマー)2日目前半
ミャンマーの元首都ヤンゴン旅行記2日目の記録です。
ミャンマーは2011年~2021年までの間、民主政権でしたので、2014年は旅行しやすい時期でした。
1日目はミャンマー駐在しているお友達Bちゃんに助けてもらい、シュエダゴンパゴダを観光。大変感動しました。
しかし、2日目は一人旅です。
海外一人旅は初めてでしたが、Bちゃんがミャンマーの電話番号を教えてくれたので(当時はラインがなかった)、「何かあればBちゃんに」という気持ちで安心して一人旅ができ、ありがたかったものです。
朝早く起き、ゲストハウスの朝食をいただきます。
会場は狭かったですが、おそらくバングラデシュやインドから来ただろうゲストの方々に囲まれて朝食を食べたことが(話しかけることはできなかったけど)、異文化交流に感じてわくわくしたのを覚えています。
1泊3日ヤンゴン弾丸旅ですから、もうチェックアウト。
ヤンゴン観光は、今日の夕方まで。
朝食を食べたらすぐに、有名な観光スポットへタクシーで行きました。
観光スポットはBちゃんにお勧めを聴いたのと、今となっては古いですが、こちら↑の地球の歩き方を参考にしました。
1,チャウタッジーパゴダခြောက်ထပ်ကြီးရွှေသာလျောင်းဘုရားကြီး
涅槃像の前には、たくさん市民の方が集まって、熱心に拝んでいらっしゃいます。
私が寺院をゆっくり観て回っている間、ほとんどの方がずっと拝んでおられました。
拝んだ後も、仏像の前に座り、ゆっくりとその空間を味わっておられる方も。
日本で神社に行ってお参りするとしても、軽く拝んですぐ帰りますが、無宗教の私とは全く違い、ミャンマーの方々の信仰心の深さを肌で感じることができました。
それだけ「拝みたいことがある」のも事実だと思います。
日本の治安は良いですし、医療面も高水準です。ミャンマーはそういうわけにもいかないと思うので、家族の健康・安全を願うのでしょう。
【涅槃像の全容】
涅槃像の他にも、見どころはたくさんありました。
涅槃像の裏側です。
ルアンパバーン(ラオス)の寺院を巡った時、仏像や獅子像、蛇神像などを一生懸命撮影して回りました。
獅子や蛇神はカラフルなものもありましたが、仏像はほとんど金色でした。
写真を見返しながら、「カラフル」と一言でいっても、使っている色、その彩度がラオスとミャンマーでは違いがあるように見えます。
ルアンパバーンで見たものは、ピンクや水色、明るめの緑を使った像はなかったです。
どちらもカラフルには違いないけれども、ミャンマーの像のほうが彩度が明めのポップな色が使ってあることが多い気がします。ルアンパバーンのほうは赤や緑を使うとしても比較的落ち着いた彩度で構成されている気がします。
【比較用の写真:ルアンパバーンの寺院にて(2024年)】
2,Botahtaung Pagoda ဗိုလ်တစ်ထောင်စေတီတော်
こちらも有名なパゴダだったので、行ってみました。
タクシーで行ったのですが、大きい紙幣しか持っておらず、「こんな大きい紙幣を出されてもお釣りがない」とドライバーさんに言われたのを覚えています。
語学力もなく、どうしていいか分からない…。
しばらくお互い「どうしよう?」と固まってしまいました。
当時薄給の私にとっては予想外の出費でしたが、「えい!寄付だ!」と思ってお釣りはいただかず。
ドライバーさんまだ若かったので、何かしら良いことに使ってくれたらいいな、と思ったのを覚えています。
今となっては良い思い出で、旅先では小さい紙幣に崩しておかなければならないという教訓を得ました。
寺院に着くと、こちらも「思ったより広い!」
そして、「やっぱり市民の方々がたくさん集まっているな~」という印象。
仏像の前には市民。
拝んでいる人もいれば、お友達とのお喋りを楽しんでいる人もいる。
私もこそっと後ろに座って、その雰囲気を楽しんでみる。
何にもしてなくても、なごむ。のどかでいいな。
「ミャンマーに来た~!」と実感させられる写真(↑)。
女性のロンジー(タメイン)の色とりどりさ、デザインの華やかさに、なんともうっとり☺特に女性は、ロンジーに合わせた上着も着ているため、華やかで美しいです。
ミャンマーは伝統衣装を着ている人が多い印象。
ミャンマーのお友達に聞いたところ「学校や職場にはロンジーで行かなければならない」とのこと。制服のような存在であるため、こんなにロンジーを身に着ける方が多いんですね。
寺院はヤンゴン川のほとりにあります。
一通り寺院を観て回ったあと、ヤンゴン川を眺めに出ます。
【ヤンゴン川を観ながら】
私はアラフォーですが、私も私の母も高齢出産で生まれた子だったため、私の祖父母は明治・大正生まれでした。祖父母はもう亡くなっていますが、生前に戦争の話をよく聴きました。
祖父はWWⅡ時、志願兵でした。家が貧しく、軍隊に入れば十分な給料で家族を養えると考えたためでした。
太平洋戦争が始まって、祖父はビルマ(ミャンマー)へ派兵されました。
終戦前、イギリス軍の銃撃に遭い、祖父と戦友たちは川を泳いでなんとか逃れようとしたそう。
祖父が泳ぐ横を銃弾がかすめたりして「もうここで死ぬのかもしれない」と覚悟したそうです。そして、川を渡れたのは数人。多くの戦友が亡くなったそうです。
祖父は生き残り日本へ帰ってきましたが…。
祖母は、祖父が帰ってきたことが本当に嬉しかったという話をよくしましたが、祖父には内緒で私にこう続けました。「多くの戦友と死別したことはトラウマで、生き残ったことに苦しみを感じていたみたい。帰ってきて2年間はうつ状態で何も手に着かなかった様子を見てきた」と。
祖父は晩年、「絶対に戦争はしてはいけない」という確固たる思いで、この川の話をよくしてくれました。
ちなみに、祖母も従軍看護師だったため、戦地の悲惨な状況を知っています。
「絶対に戦争はしてはいけない」という祖父母の教訓は今も心に刻まれています。
ヤンゴン川を見ながら、
「祖父が言っていたのはこの川ではないかもしれないけど、この川で戦時中に亡くなった人もたくさんいるのかもしれない」と考えたときに、こみ上げるものがありました。
ここで祖父母の教訓が心を満たしたのをよく覚えています。
2024年の今、危険レベル2になってしまったミャンマーで戦いが少しでも遠のくことを願ってます。
祖父は絶対に話しませんでしたが、おそらく、日本兵としてミャンマー人に危害を加えることもあったでしょう。
なぜならば、ミャンマー語を勉強した際、太平洋戦争期を描写したミャンマー小説を読む機会が何度かあり、たいていの作品で日本兵は「鬼畜」(ミャンマー人に対してひどい言動を繰り返す)として描かれていたからです。
ある作品では、穏やかな日本兵とミャンマー人が仲良くなる、ほのぼのとした描写もありました。しかし、最後にはどちらか一方が生き残らなければならない状況になり、一方を害してしまう悲しい結末を迎えたお話でした。
これらは小説であり、フィクションです。しかし、「そういった描写は100%作り話だ」と、戦争下で言えるでしょうか。
こういった小説を読むたびに「私の祖父もこうだったかもしれない。戦争という中で仕方がないことだったとしても…。祖父が現地の生活について絶対に口にしなかったのは、何かしらの理由があったのかもしれない」と胸が痛みました。「私はミャンマー人に『敵』と思われて仕方ない」と思う時があります。そういう血が流れているんだろうと。そういう罪悪感もあり、向き合うのが精神的にしんどくて、ミャンマー語から離れてしまったという事実もありました。
2024年になった今、同様の思いは継続してあります。けど、「だからこそ私はミャンマーに何かしらの形で貢献をしなければならない」と思うようになった気がします。まっすぐな純粋な想いが100%というわけではないですが、原動力になっている気もします。
3,昼食
2つ目の寺院をあとに、またタクシーに乗って昼食を食べに来ました。
地球の歩き方に載っていたので、本の住所をドライバーさんに見せ、連れて行ってもらいました。
当時ミャンマー語をすっかり忘れてしまった私。
拙く「一番良いのはどれですか?」と店員さんへ訊いて、出てきたのがこの麺料理でした。
今日はここまで。
有名な寺院を観て回れてとても満足!黄金でカラフルな寺院は日本には無いので、異国感を感じられてとても刺激的でした。来週日曜日は、2日目後半の旅行記を綴る予定です。