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自己言及

本稿が最初のnoteとなる.
はじめに思いつくのは自己に関する言及であるが,自己など最期まで切り取ることのできないものだと(少なくとも今は)考えているのでやめておく.
(自己言及のパラドックス!)

その代わりに,noteを書く目的から述べたいと思う.

連続した日々を過ごしているように感じるが,そのような日々を思い返してみると記憶は断片的で不連続であり,忘れていることも多くある.
そしてそのような過去の事実(と思われる)は,現在の解釈のもとで語られる.「事実を語ること」と「解釈」は不可分である.
過去に活字として残したものを,時間的に距離のある地点で読み返すと,二つの地点の間に解釈の差が存在していることに驚くことがある.

これは時間的変化に限った話ではない.

同じ時間,場所,出来事を前にしても,あなたと私が語ることの間に差異が存在している.結局のところ揺るぎない「事実」など語る上では存在しておらず,「解釈」によって如何様にも「事実」はねじ曲げられる.

しかし,その「解釈」の差異があることで,語ることに価値が生まれる.
むしろその差異を明らかにするために,語ることをしているようにも思える.同時に,語ったことの差異が語り手の輪郭を徐々に作り上げていくのだろう.
少なくとも僕はそう考えている.同じであることを求めてはいない.

ここではいわゆる活字化をするわけだが,同じ時間を生きている私たちが土地を異にしても互いの解釈を共有できることに意味がある気がする.
もしかしたら僕が死んだ後でも,時間を異にした誰かが読むことだってあるかもしれない.
言葉にされなかったものはいつか無くなってしまう.というより無かったことになってしまう.

だから残そうと思う.
人は語ることをやめられない.でも口にしたものは空気をふるわすだけで後には残らない.文字は残せる.せっかくなら残るものをつくろうと思う.


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