うつし鏡
言葉として正しいのかは賛否両論あると思うが、躾として必要な部分(伝える必要があるところ)と自分の判断で選び取りその責任を持つことで学んでいく部分(学ぶ機会を得るところ)の境目というのは掴みづらく、そのほとんどが瞬時に判断を求められるところだ。はっと考える機会は多いし、この見極めがその後の子どもの姿にはっきりと現れることに驚き、反省することも多い。よく引き合いに出される言葉として「放任」と「過干渉」があるが、伝える必要があるところを伝えない、が放任。学ぶ機会をこちらが全て奪ってしまうこと、が過干渉。どちらでもない、躾と学びの機会、両方のバランスが取れるポイントはどこなのか、観察し続けている。
以前、修復の現場で助手をしていたときに、鉋(かんな)をかけたことがある。その作業を終えて私が鉋を木の床に置いた時、「一つだけ」と普段あまり口を挟まない仏師のYさんが
「これは躾だから、ね」
と鉋の置き方を教えてくれた。刃が傷んでしまうので刃を横にした状態で置くのだ。刃の整え方や力のかけ方、鉋屑の様子に意識はあったが、置き方には意識が及ばなかった。言われてみれば、鉋台から刃がほんのわずかに出ていることは確かで、その面を床にすると刃に負荷がかかってしまう。私が教育現場に立って判断に迷う時、思い起こされる場面の1つだ。
また、私は好奇心旺盛で、〈自分自身で〉目に見える景色や経験から感じ、選び、考えや想像を膨らませることが好きなので、旅行先での散歩や散策が楽しみだ。生身の姿が見え隠れする市場や、気候や人柄が出る家の造りを眺めて、背景のうかがえる料理に惹かれる。そんな、土地に結びついた場面を歩いたり写真におさめたりするのが好きだ。そして、そこで得た失敗や気づき全部含めて〈新たな扉を開いた経験〉が、今の自分の糧になっていることが多い。自分が焦って余裕がない時こそ、目の前にいる児童生徒が大人になったとき、自分の価値判断基準となる感覚や経験を広げる機会を、私は奪っていないか?そんな声も聴こえる。
そんな私が最近気にかかっていることが、「褒める」こと。
これまで教員として中学生に触れる機会が多かった私は、彼や彼女が〈新たな扉〉を開ける瞬間に何度か立ち合い、その内面から湧き上がる喜びの瞬間に、初めて、「やったね」「見えたね」そう声をかけた時、返ってくる彼らのキラキラした笑顔が支えだった。中学生は、他者意識が高まり、自己実現に向けて揺れ動く価値観や自尊心の振れ幅も大きいので、精神状態が作品に投影されることも少なくはない。その一方で、こちらの求めるものに答えて評価を得ようとする意識も強くあるため、表立った言動に彼らの本音が見えないことも多い。だから、私が褒める(・・というか、彼らを認める)タイミングは、彼らが本心から作品に向き合い、扉を開けた瞬間を見逃さないことに注力していた。
しかし、この4月から、中学生の他に、小学2年生も担当するようになり、ぬいぐるみ片手にオンライン朝の会を行う私は、このタイミングの見極めが、ゆるゆるになっていることに気づいたのだ。「いいね〜」「すごいなぁ」「へぇー、大したもんだ」・・・以下自粛。小学2年生は中学生とは違う。でも、これでいいのか・・?自分が感じたものや思ったことを躊躇なく私に伝え、主張し、他にももっとみてほしいと両側から腕を引っ張られる。感覚の反応も瞬間的で、意図や考えが後からついてきたりこなかったり・・。ついついそのペースにほだされていた。考えないと。これでは彼らが自己評価できなくなってしまう、そう心配している。なぜなら、彼らは「褒めてもらえた、嬉しい」「また、褒めてほしい」ので、自分の選択や判断の評価を他者(教員)に預けがちになってしまうからだ。これを続けていると自分で選び、判断することが難しくなってしまうのではないか。
褒めること全てが悪いわけはないが、自己反省・自己評価できる過程に寄り添える言葉がけや行動があるはずだ。無邪気で天真爛漫な、彼らの感性を潰さないように。
必要なことの全ては子どもの姿にある。彼らをよくよく観察したい。