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旅する声、響く情熱ー三浦環ー
2月22日は、日本人で初めて国際的な活躍をしたオペラ歌手、三浦 環が生まれた日。本名は柴田 環(しばた たまき)。(1884年2月22日 - 1946年5月26日)
代表曲は、プッチーニの『蝶々夫人』にイメージを重ねられ、「マダム・バタフライ」と呼ばれた。
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グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。
ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。
先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。
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【プリマドンナへの道】
東京府芝区今入町、現在の港区虎ノ門1丁目の裕福な家庭に生まれる。環は東京女学館を卒業後、東京音楽学校に入学、その際、父の意に添い、軍医の藤井善一と婚約する。
20歳の夏、東京帝国大学の学生有志らが組織する歌劇研究会が主催した日本最初のオペラ公演「オフィーリアとエウリディーチェ」に参加し、主役のエウリディーチェを演じ。オペラ歌手として デビューする。
1904年に卒業するとともに研究科に進んで研鑽を積み、東京音楽学校助教授になるも、環の人気に嫉妬した藤井との離婚をマスコミに叩かれて、辞職。
帝国劇場開幕にあたって、声楽教師として招かれて音楽界に復帰、さまざまな新作に主演し、絶大な人気を得るまでになった。
1912年、ひょんなことから東京帝国大学医学部助手 三浦政太郎と再婚。夫とともにドイツへ留学し、第一次世界大戦が勃発した為、ロンドンへ。
そこで世界的指揮者のヘンリー・ウッド卿と、イタリアのマルコニー侯爵夫人と出会い、日夜歌と踊りの振付に取り組みます。1914年ロイヤル・アルバート・ホールの演奏会で海外初舞台を踏んだのを手はじめに、舞台に出演を重ねるにつれて、環は高く評価されるようになった。
そしてついに、1916年、ロンドンで「蝶々夫人」を演じ大成功をおさめ、これを機に活動の舞台を欧米に移し、世界的プリマドンナとして欧米各地で2,000回も蝶々夫人を歌った。
【後進の育成】
1935年に帰国すると、翌年日本でも公演を開き、以後は後進の育成に努めた。
【ひょんなことから再婚】
離婚時、マスコミにあること、ないことを書かれた環。しつこい前夫の藤井との会ったことが、東京帝国大学医学部助手の三浦政太郎と間違えてスキャンダルな記事に仕立てられた。
世間の前で、藤井は狼狽して逃げ腰となり、関係のない三浦は、この機会を利用して環に正式に結婚を申し込んだ。三浦は、環の熱狂的ファンだったそう。
結婚した後も、しっかりと環の活躍を支えていったのはいうまでもありません。
【ハイカラさんが通る】
当時まだ珍しかった自転車で通学し、「自転車美人」として新聞に載り、小杉天外の小説『魔風恋風』のヒロインのモデルにもなり、社会現象を引き起こした。
そんな環を一目見ようと、上野広小路界隈では男子学生たちが待ち伏せし、その中には当時画学生だった藤島武二もいた。
また、東京音楽学校の助教授になったころは、教え子の山田耕作まで道に寝そべって通せんぼする有様で、自転車が転んで環が精養軒の脇の溝に落ちるのをみて手をたたいて喜んだという。
歌うことは万人を幸福にすることだという信念を持ち続けた生涯だったといいます。
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