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8歳で人生の行き先に悩んだ少女が選んだ職業 〜マルグリート・ヒギンズ〜
9月3日は、アメリカの従軍新聞記者
マルグリート・ヒギンズ・ホールの生まれた日。
(1920年9月3日-1966年1月3日)
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皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。
ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。
先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。
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香港生まれ。
父ローレンス・ヒギンズは香港の海運会社に勤務、
母はフランス貴族の血を引くマルグリット・ドゥ・ゴダール。
一家はアメリカに渡り、オークランドに居住。
1929年の世界恐慌で父が失業した時、
マルグリートは、その日が子供時代における最悪の日であり、大人になったらどうやって生活していこうかと悩むようになったそう。
その時、マルグリートはまだ8歳。
これが生涯の原点だった。
カリフォルニア大学バークレー校では、
フランス語の学士号を取得、
コロンビア大学ジャーナリズム大学院で学び、
クラスの中でもトップの成績、
さらに美貌も兼ね備えていた。
1942年、マルグリートは『トリビューン』紙の学生記者を務め、それがきっかけで同紙の正規の記者になった。
第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などで
女性への偏見の中でも従軍記者として活動し、
マルグリートの存在は、
女性記者の地位向上へとつながった。
1942年から1963年まで
『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン(英語版)』紙に在籍した後、『ニューズデイ』紙に連載コラムを寄稿。
1951年、朝鮮戦争の取材に対して、
女性記者としては初のピューリッツァー賞 国際報道部門を受賞。
男性の嫉妬、妬みにも負けず、キャリアを重ねていった。
最初の結婚は、カリフォルニア大学在学中、
哲学科の助手スタンレー・ムーア。
2度目は、1952年。
アメリカ空軍少将のウィリアム・イーヴンズ・ホールと。
2人の子供をもうけた。
他に猫が3匹、インコが2羽と
犬、ウサギ、ロバが1匹ずついた。
1965年11月、
南ベトナムの取材から戻ったヒギンズは、
リーシュマニア症にかかり、
1966年1月3日、45歳でワシントンD.C.において死去。
マルグリートは今、夫と共に、
アメリカの戦没者慰霊施設であり、
歴代大統領が眠るアーリントン国立墓地に埋葬されている。
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