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永遠のセクシーアイコン、ハリウッドの伝説

6月1日は、ハリウッド女優、マリリン・モンローが生まれた日。(1926年6月1日 - 1962年8月5日)

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

マリリン・モンローは、1950年代から1960年代初頭にかけて活躍したハリウッドの伝説的な女優です。彼女は髪をプラチナブロンドに染め、当時最も人気のあるセックスシンボルとなりました。

しかし、その華やかな外見とは裏腹に、マリリンは努力家で聡明な女性でした。
彼女は生涯を通じて、頭の悪いブロンドガールというイメージに悩まされました。

それでも、多くの人が映画の中の彼女が本当のマリリンだと信じてしまうほど、本物の女優としての実力を持っていました。

幼少期と初期のキャリア

マリリンはロサンゼルスで生まれましたが、母親が精神病院に入ったため、幼少期を里親家庭や孤児院で過ごしました。「周りの世界が何となく不気味で好きではなかった。『これは、“いい子” を演じるお芝居なんだ』と思っていた」と彼女は後に回想しています。また、幼い頃に映画館で一人で過ごすことが楽しかったとも語っています。

マリリンの女優としてのスタートは、20世紀FOXとの半年間の契約から始まりました。新たなセックスシンボルとして人気を獲得しつつあった彼女ですが、実は演技派の女優になりたいと強く思っていました。

自身の制作会社設立と演技の追求

1954年にマリリンは自身の制作会社「マリリン・モンロー・プロダクションズ (MMP)」を設立しました。

1955年からは再び演技を学び始め、イギリスの演技派女優の演劇講座を受講しました。さらに、リー・ストラスバーグが主宰する演劇学校アクターズ・スタジオでメソッド演技法を学び、彼の自宅で個人レッスンを受けるようにもなりました。
この経験は彼女の女優人生に多大なる影響を与えました。

また、リーの「俳優は自らのトラウマに立ち向かい、それを演技に生かさなければならない」という教えに感化され、マリリンは精神分析も受け始めました。

ハリウッドへの復帰と成功

1958年7月にハリウッドに戻ったマリリンは、ビリー・ワイルダー監督の『お熱いのがお好き』に出演しました。

気難しいと評判のワイルダーとの間で、彼女の演技の方向性をめぐって意見が一致しなかったため、現場は難航しました。
しかし最後には、ワイルダーも「セリフを覚えて演技するだけなら誰でもできる。だが彼女はセリフを覚えずに現場に来て、素晴らしい演技ができる本物の俳優だ」と述べました。
この映画は1959年3月に封切られ、大成功を収めました。
マリリンはこの演技でゴールデングローブ賞 ミュージカル・コメディ映画部門主演女優賞を受賞しました。

最期

皆さんがご存じのように、1962年8月5日、マリリンはロサンゼルスの自宅で帰らぬ人となりました。
薬物による中毒死で、享年36歳でした。

『バス・ストップ』の監督を務めたジョシュア・ローガンは「彼女は世界で最も評価されていない人間の1人である」と述べて、その死を悼みました。

マリリン・モンローは、その美貌と才能で多くの人々を魅了し続けた一方で、内面には多くの苦悩を抱えていました。しかし、その演技力と人間性は今なお多くの人々に愛されています。


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