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「おいしゅうございます」を世に広めた料理記者、岸 朝子

11月22日は、料理記者であり、食生活ジャーナリストであった岸 朝子が生まれた日。「おいしゅうございます」を世に広めた。(1923年11月22日 - 2015年9月22日)

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グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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東京出身。父は宮城新昌(みやぎ しんしょう)。沖縄県国頭郡大宜味村(くにがみぐん おおぎみそん)の出身で、日米でカキの養殖法の開発と普及に貢献し「日本の牡蛎王」と呼ばれた。

母の“つる”は大宜味尋常小学校校長で教育者だった親泊朝擢(おやどまり ちょうたく)の娘で、琉球王国第二尚氏3代尚真王の長男(廃嫡)・尚維衡(しょう いこう、浦添王子朝満)の末裔。

姉はウィンナーに切り込みを入れて食べやすくすることを日本で最初に考案して世の中に広め、また、たこさんウィンナーの考案者として有名な料理研究家の尚道子。
尚道子の夫尚明は、日本住宅公団元副総裁でダイニングキッチンの考案者として知られる。

朝子は、永田町小学校(現・麹町小学校)から東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に転入し卒業。
東京府立第三高等女学校(現・東京都立駒場高等学校)を経て、女子栄養学園(現・女子栄養大学)入学、卒業。

まだ、戦時中であった。

21歳で見合い結婚。
夫である岸秋正は、陸軍士官学校出身の職業軍人だった。

戦後、夫は職を無くし、困窮より、働くことを決意。

主婦の友社の「料理の好きな家庭婦人を求む」の求人にパートと思って、応募。
が、フルタイムの料理記者だった。

4人の子供を育てながら、猛烈に働いた。
朝子、32歳であった。

当時モノクロだった料理写真では分かりづらいおいしさを文章で伝えるため、味だけでなく盛り付けや香り、歯触りと多角的な表現力を鍛えてきた。仕事帰りの食べ歩きや取材を通じて料理人人脈を広げていった。

その後は女子栄養大学出版部に移り、1968年から雑誌『栄養と料理』の編集長を10年間務める。

この時期、食べ歩きや食器の楽しみ方など新しい企画を次々と出し『栄養と料理』の販売部数を倍にした。

料理記者時代に師である香川綾が考案した料理のレシピで使われる大さじ・小さじなどの分量の規定の普及に貢献した。

1979年に女性ばかりの編集プロダクション「株式会社エディターズ」を設立して独立。

料理・栄養に関する雑誌・書籍を多数出版。

1993年から6年間、フジテレビ系列の人気番組『料理の鉄人』に審査員としてレギュラー出演。

「料理記者歴40年」が肩書きだった。

お茶の間の人気も集め、試食時の「おいしゅうございます」の一言を聞きたいがために料理人たちが切磋琢磨した。

座右の銘は、「食は命なり」だった。

決めぜりふの「おいしゅうございます」というのは、動物や植物の命をいただくことへの感謝の言葉です。食材を粗末にしてはいけない。戦争が終わった後の日本の家庭は貧乏でしたからね。ぜいたくな物は食べられないから、いい材料がなくても工夫しておいしくいただいていました。今も「お好きなものは」と聞かれると、「何でも」と答えていますよ。

2015年9月22日、東京都千代田区の病院にて、心不全のため死去。享年91歳。

最後の食事は白いご飯、みそ汁、のりの佃煮(鳴門千鳥本舗の淡路島生のり佃煮)。

「母が好きだったのは『鳴門千鳥本舗』の『淡路島産 生のり佃煮』です。それを食べて『おいしゅうございました』と、喜んでいましたね。母はときどき家でも『ごちそうさま』の代わりにそう言っていたのです」と次女・小宮裕子さんが語っている。


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