その画からは音楽が聞こえてくるといわれたイクメン画家
12月18日は、ドイツ画家、パウル・クレーが生まれた日。
カンディンスキーらとともに「青騎士 (ブラウエ・ライター)」を結成。子どものような無垢な視点、ドライなユーモラスさ、バイオリニストの経験から由来する音楽性が絵画作品に反映され、パウルの絵からは音楽が聴こえてくるといわれた。(1879年12月18日 - 1940年6月29日)
1879年、スイスの首都・ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれた。
父は音楽教師、母も音楽学校で声楽を学ぶという音楽一家であった。クレー自身も早くからヴァイオリンに親しみ、11歳でベルンのオーケストラに籍を置くほどであった。
その一方で絵画への関心も幼少の頃から芽生えていた。また文学にも興味を持っていた。迷った末にクレーは音楽や文学ではなく絵の道を選ぶことになる。ただ絵に専念することを決めた後も一日にヴァイオリンも詩作も続けた。
18歳の頃から書き始めた日記は日々の出来事や創作した詩を書くだけのものに留まらず、クレーの絵画及び芸術に対する考えや方向性を鍛え上げていく場となった。
1906年に結婚した妻リリー・シュトゥンプフはピアニストであった。
1898年、当時はパリと並ぶ芸術の都だったミュンヘンに出て、2年後に美術学校に入学し、象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックの指導を受けるも、退学。
同年から翌年にかけてイタリアを旅行してルネサンスやバロックの絵画や建築を見て回り、特に建築の純粋さから多くを学んだ。
1906年、ピアニストだったリリー・シュトゥンプフと結婚してミュンヘンで新婚家庭を営み、翌年には息子フェリックスが誕生した。まだ無名の画家だったクレーには収入源が無く、リリーがピアノ教師として働くことで家計を支え、代わりにクレーは育児をはじめとする様々な家事に携わった。フェリックスを育てる上でのクレーの手による詳細な育児日記が残されている。
1914年、二人の友人画家と共に北アフリカ・チュニジアへ旅行、この時期を境に、クレーの絵画の作風は大きな発展を遂げ、徐々に作品が認められるように。クレーは、35歳だった。
が、1914年は、第一次世界大戦が始まった年でもあり、大戦でクレーは親しい友人たちを失った。クレー自身もやがて従軍し、幸いにも前線へは送られなかったため、彼は兵舎で絵を描き続けた。
第一次大戦後のドイツに設立された総合造形学校バウハウスは、クレーを指導者の一人として招き、最も実り豊かなクレーのバウハウス時代が始まる。
しかし1933年には、ヒトラーがドイツの政権を掌握、自身画家志望であったヒトラーは、ドイツの前衛画家たちに弾圧を加える。クレーは生まれ故郷であるベルンに亡命。財産は凍結されたままだった。
皮膚軟化症に苦しんだ末、60歳で死去。
クレーは最期の時まで創作に専念し、ドイツ時代には描かれなかった大作の多くや、おびただしい数のデッサンを遺している。あの有名な天使シリーズもこの時期に描かれた。
イクメンパパとして育てた息子、フェリックスはのちにクレーの故郷ベルンで「パウル・クレー財団」を設立し、スイスでのクレー作品の保存に尽力した。その作品は、約6000点。現在も彼の一族が運営している。
日本には、愛知県美術館、高知県立美術館、新潟市美術館、そして東京のアーティゾン美術館に、クレーの作品が所蔵されている。
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