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『闘う宝塚』日本の女子プロレスラー〜ジャッキー佐藤〜

10月30日は、『闘う宝塚』日本の女子プロレスラー、ジャッキー佐藤が生まれた日。

(本名:佐藤 尚子1957年10月30日 - 1999年8月9日)

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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神奈川県横浜市港南区出身。

生まれた時は3900gの巨大ベビーだった。

小学生の時から、長身でスポーツは万能だった。その長身を生かし、中学校時代はバスケットボール部で活躍。1973年、バスケットボールの強豪校であった神奈川県立商工高等学校に入学。1年生の時からインタハイに出場し、バスケットボール実業団からスカウトもあったが、2年で中退し、全日本女子プロレスに入門。

デビュー戦は1975年4月27日のマキ上田で、15分戦った後に引き分けとなっている。

1976年2月24日にマキと『ビューティ・ペア』を結成しWWWA世界タッグ王座を獲得した。

ビューティ・ペアは『かけめぐる青春』を80万枚売り上げ、その後もヒットを飛ばし、ピンク・レディーと人気を二分して試合前のリングで歌を披露する際には観客席から投げ込まれた紙テープや紙吹雪で一杯になったそう。

身長173㎝のジャッキーが男役・168㎝のマキが女役の『戦う宝塚』といわれた。

コンビ結成から3年後には「敗者引退」という過酷なルールでのマキとの再対決は48分7秒、エビ固めで勝利してマキは引退した。

ビューティ・ペアに終止符が打たれた。

解散後は、モンスター・リッパーにWWWA世界シングル王座を奪われるも奪還したが、1981年2月25日のジャガー横田(当時:横田利美)戦で同王座から転落。

1981年、引退。

全日本女子プロレス引退後はスポーツジム・ブティックを経営し、そして芸能事務所にも在籍したが、その後新団体「ジャパン女子プロレス」の設立に誘われて参加。

1986年8月17日、対神取忍(当時:神取しのぶ)戦で現役復帰を果たした。

しかし団体内での金銭問題・怪我の保障問題トラブルから神取との確執が表面化し、1987年7月18日の神奈川県大和市車体工業体育館大会において行われた神取との一騎打ちが壮絶なセメントマッチとなり、敗れたジャッキーは1988年、沖縄県での試合を最後に現役を引退した。

後日、神取は「あの試合のとき、考えていたことは勝つことじゃないもん。相手の心を折ることだったもん。骨でも、肉でもない、心を折ることを考えてた」と語っている。「苦痛と、見る自由を奪われることと、息ができない恐怖と、この三つがそろって、初めて、心が折れるのよ」と。

日本で初めて『心を折る』という表現をした神取によれば、「(ジャッキーとの確執など)様々な思いが交錯していく中で思いついた言葉」だったと振り返り、「骨を折る」から連想したとも明かした。

1998年10月に胃がんを告知され手術。約一年後、死去。享年41歳。


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