ロシア宮廷の中に溶け込めなかったロシア最後の皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ
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グリーンビューティ®専門家の青木恵と申します。
ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。
先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。火曜日・木曜日にまとめて投稿しています、該当する偉人がいない場合はお休みです。
長文につき、時間があるとき、興味がある方をご覧くださいね。
楽しんでいただけたら、嬉しいです。
6月6日は、ロシア皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラ・フョードロヴナが生まれた日。(1872年6月6日~1018年7月17日)
ヘッセン大公ルートヴィヒ4世とイギリスのヴィクトリア女王の次女アリスの間の四女ヴィクトリア・アリックスとして生まれる。
母アリス・モード・メアリーを早くに亡くしたため、12歳までイギリス、ビクトリア女王に育てられる。
姉とニコライの叔父であるセルゲイ・アレクサンドロヴィチが結婚した際、ニコライと出会い、すぐに恋に落ちたそう。アレクサンドラ、12歳の皇太子だったニコライは16歳。
それから10年間、愛を育んだ。
結婚の話が持ち上がった時、姑となるマリア皇太后は、内気なアレクサンドラの性格ではロシアの皇后は務まらないと反対したが、長年不仲だったロシアに身内を送り込みたかったヴィクトリア女王は結局承諾してしまう。
周囲の反対を押し切り、二人は結婚。アレクサンドラとニコライの間には5人の子どもができた。オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシアと息子のアレクセイ。内向的な性格だったため、なかなかロシア宮廷には馴染めなかった。が、母アリスの影響もあり、当時の王族にしては珍しく、自ら子ども達に母乳を与え世話もし、深い愛情を注いだ。
ロシア革命により、1918年7月17日未明に監禁先のエカテリンブルクのイパチェフ館において一家ともども殺された。
アレクサンドラは、藤色が好きで、彼女の部屋はすべて藤色で統一されていた。フランスのリヴィエラから毎日ライラック・スミレ・ランを取り寄せ、毎シーズン、パリで50着のドレスを作らせ、ロゼ・ブランシュのバラの香水を愛用したそう。